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同じ角度で、上げる

敬意

同じ角度で、上げる

朗読で聴く

第一章 角度

桑野邦彦は三十四歳になった。

十二年、同じことをしている。

朝、庁舎の廊下で上官とすれ違う。すれ違う二歩手前で、右手を上げる。指を揃えて、手のひらをわずかに内へ向けて、目の高さよりやや上に持っていく。

角度は決まっている。

決めたのは邦彦ではない。教範に書いてあって、最初の三か月で体に入れられた。入れられたあとは、考えなくても同じところに手が行く。

最初のころは、鏡の前でやらされた。角度が浅いと言われて、直して、また見せる。そのくり返しで三か月かかった。

三か月で身につくということは、三か月ぶんの重みしかない、とも言える。それでも十二年やれば、体のほうがそれで出来上がる。

十二年、一度も乱れていない。

乱れないのは、尊敬しているからではない。形が決まっているからだ。

この二つは違うことだと、邦彦は思っている。思っているが、外から見ると同じに見える。

同じに見えるので、誰にも確かめられない。確かめられないまま、十二年たった。

同じに見えることを、邦彦は不満に思っていない。むしろ都合がいい。中で何が起きていても、外の形が同じなら、職場では何の問題も起きない。

第二章 相手

毎朝すれ違う相手のことを、邦彦は何も知らない。

階級が上だということは知っている。名前も知っている。それ以外は知らない。家族がいるのかも、どこから来たのかも、どういう人なのかも知らない。

話したことは、業務の伝達以外にない。十二年で、たぶん合計三十分もない。

知ろうとしたこともない。知る必要がないからだ。仕事に必要なのは階級と役職で、それは名札を見ればわかる。

知らない相手に、毎朝手を上げている。それは変なことのようでいて、この職場では当たり前のことだ。

目は合わない。

こちらが上げると、向こうも上げる。上げながら歩いていく。視線はこちらの顔のあたりを通り過ぎるが、止まらない。

止まらないのが正しいのだと、邦彦は知っている。止まるほうがおかしい。毎朝立ち止まって見つめ合っていたら、業務にならない。

こちらが上げるのを、向こうが見ていない朝もある。書類を読みながら歩いてくることがあって、そういうときは手だけが上がって返ってくる。それでも形は成立している。

成立しているので、誰も直さない。

だから、これでいい。

実際、この十二年で困ったことは一度もない。遅れたことも、忘れたこともない。上官が替わっても、同じように上げてきた。替わった翌朝から、角度は同じだった。

相手が替わっても同じなのは、形が相手のものではないからだ。形は制度のもので、相手はそこに立っている人にすぎない。

これでいいのに、上げているあいだ、こちらの側では何かが動いている。

第三章 動くもの

何が動いているのかを、邦彦はうまく言えない。

尊敬ではない。相手を知らないので、尊敬のしようがない。

服従でもない。命令に従っているという感じは、手を上げるときにはない。もっと自動的で、もっと薄い。

挨拶に近いのかもしれない、と思ったこともある。ただ、挨拶なら相手が替われば少し変わる。これは替わらない。相手が誰でも、まったく同じ角度で上がる。

挨拶は相手に向いているが、これは相手を通り越してどこかに向いている。

ただ、上げるたびに、体の中で何かが向こうへ行こうとする。

行こうとして、届かない。

届かないのは向こうが悪いからではない。向こうは受け取る器官を持っていない。階級が上の人として立っているだけで、そこに邦彦の何かを受け取る役目はついていない。

役目にないものを渡そうとしているのは、こちらだ。

十二年、それを毎朝やっている。

やめようと思ったことはない。やめたら業務にならないし、やめたい理由もない。

ただ、上げるたびに出ていこうとするものが、どこにも着かずに戻ってくる。戻ってきたものが、その日のどこかに残っている気はする。気がするだけで、探しても見つからない。

第四章 誰も間違っていない

同僚に、この話をしたことはない。

するとしたら、どう言えばいいのかがわからない。敬礼が嫌なのかと聞かれれば、嫌ではない。上官に不満があるのかと聞かれれば、ない。

不満はないのに、話がある。それを説明する言葉がない。

言葉にしようとすると、必ず不満の形になる。上官が冷たいとか、形式ばかりだとか、そういう話に聞こえてしまう。そういう話ではない。

そういう話ではない、と言うところから始めなければならないので、始められない。

妻の綾には一度だけ、似たようなことを言った。毎日同じことをしてるだけなんだけどな、と。

綾は、そういう仕事でしょ、と言った。

邦彦は、まあな、と答えた。そこで話は終わって、二人でテレビの続きを見た。終わったことに、少しほっとした。

誰も間違ったことを言っていない。

そういう仕事だ。形が決まっている職場で、形どおりにやっている。給料が出ている。何の問題もない。

問題がないことが、いちばん説明しにくい。

困っていれば相談できる。困っていないものを相談する場所は、どこにもない。

仮に上官に言ったとしても、たぶん困らせるだけだ。あの人は制度の位置に立っているだけで、邦彦の中で何が動いているかを引き受ける役目を負っていない。

第五章 十二年

入ったころは、形がぎこちなかった。

角度が浅かったり、上げるのが早かったりした。注意されて、直した。半年ほどで、直すことがなくなった。

いまは、考える前に上がっている。

考える前に上がる、というのは楽なことでもある。迷わないし、間違えない。十二年で身についたもののうち、いちばん確かなものがこれだ。

考える前に上がるので、上げたことを覚えていない朝もある。廊下を歩いて、階段を降りて、部屋に着いてから、そういえば今日も上げたな、と思う。

――乱れないのは、形が決まっているからだ。

覚えていないのに、体の中で動いたものは、たぶんその朝も動いていた。動いて、行き場がなくて、そのままどこかに消えた。

十二年ぶん消えている。

消えていると言っても、失くしたわけではない。手を上げるたびに出て、行き先がなくて、しぼんで終わる。それだけのことだ。

もし向こうが一度でも立ち止まって、こちらを見たら、そのぶんは着くのだろうか。着いたところで、次の朝はまた同じだろう。

どこへ行ったのかは、わからない。減っている感じもしない。毎朝、同じだけ動いて、同じだけ行き場がない。

この先も同じだろう、と邦彦は思っている。定年まで、同じ角度で上げつづける。角度が変わることはない。決めたのが自分ではないからだ。

エピローグ

朝、廊下を歩く。二歩手前で右手が上がる。

角度は今日も同じだ。相手も上げて、通り過ぎる。

こちらの中で、何かが動く。

――動いたものは、向こうには渡らない。

あなたにも、渡らないまま続けているものがありますか。

ソウルミッション358

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