待っていてくれる
アメリカの小さな町、現代。六十六歳のウォルト・ケリーは歩くのが遅い。三年前からそうなった。金曜の夕方、同じ相手と同じ店まで歩く。相手はかどまで行くと必ず止まって、こちらが追いつくのを待つ。振り返らない。急かさない。三年で一度も、その話をされたことがない。待たせている時間だけがたまっていく。

朗読で聴く
第一章 金曜の夕方
ウォルト・ケリーは六十六歳になった。
アメリカの、通りが十数本しかない町に住んでいる。三年前から、歩くのが遅い。
病気の名前はある。名前があっても、歩く速さは戻らない。以前の六割くらいで進む、というのが実感に近い。
痛くはない。転ぶこともない。ただ、足が前に出るまでに、以前より少し間がある。その少しが一歩ごとに積もって、十二分になる。
自分ひとりで歩いているぶんには、何の問題もない。急ぐ用がなければ、遅いことは困りごとですらない。誰かと歩くときにだけ、問題が現れる。
金曜の夕方、ウォルトはハンクと歩く。
四十年の付き合いだ。家から店まで、歩いて十二分かかる道を、二人で行く。以前は九分だった。
ハンクは先を歩く。かどまで行くと、そこで止まる。
ウォルトが追いつくと、また歩き出す。かどが四つあるので、四回止まる。
振り返らない。
三年前の最初の金曜に、一度だけ振り返った。ウォルトが遅れているのに気づいて、立ち止まって、こちらを見た。目が合った。
次の週から、振り返らなくなった。かどで止まって、そのまま前を向いている。三年間、一度も例外がない。
あいだに何の話もなかった。ハンクが自分で決めたのだろうと、ウォルトは思っている。
第二章 振り返らない
ハンクは振り返らずに待っている。
立ち止まって、店のほうを見ているか、道の先を見ているか、ポケットに手を入れているかしている。ウォルトが後ろから来るのを、見ていない。
これは、たぶん意図してやっている。
振り返れば、待っていることになる。前を見ていれば、たまたま止まっているだけになる。ハンクは四十年ウォルトを知っているので、そのくらいのことは考えるだろう。
考えてやっていることを、ウォルトはありがたいと思っている。
同時に、考えさせていることが、こちらの側に残る。
ハンクは、ただ歩けばいい相手ではなくなった。歩き方を工夫する相手になった。三年前まで、そんなことをさせていなかった。
四十年のうち三十七年は、並んで歩いていた。話しながら歩いて、店に着いていた。いま二人は縦に並んでいて、道中はほとんど喋らない。
喋らないのは、距離があるからだ。ウォルトは息が上がるので、喋りながらは歩けない。ハンクは前を向いているので、話しかけにくい。
店に入って座ると、いつもどおりに喋る。喋る時間は昔と同じだけある。減ったのは道中だけだ。
第三章 出ない
三年間、その話は出ていない。
遅くなったな、とも言われない。大丈夫か、とも聞かれない。ゆっくり行こう、とも言わない。
言われたことがあるのは、一度だけだ。三年前、はじめてかどで待たれたとき、ウォルトのほうから、悪いな、と言った。
ハンクは、何が、と言った。
それで終わった。以来、ウォルトも言っていない。
何が、というのは、うまい返し方だったと思う。話をなかったことにしないで、話にもしない。ハンクにそんな器用さがあるとは、四十年知っていて気づかなかった。
言えば、ハンクに何かを言わせることになる。いいんだよ、と言わせるか、気にするなと言わせるか。どちらにしても、ハンクの側に一つ荷物が増える。
増やさないために、黙っている。
黙っていると、二人のあいだにそれが無いことになる。無いことになっているものを、ウォルトは毎週かどのたびに見ている。
ハンクも見ているのかもしれない。見ていて、同じように黙っているのかもしれない。それも聞けない。聞けば、話が出てしまう。
黙っていることが正しいのかは、わからない。三年たっても、まだわからない。
妻のマーサには一度だけ話した。マーサは、ハンクは気にしてないわよ、と言った。ウォルトも気にしていないと思っている。
気にしていないのは知っている。知っていることと、こちらが受け取っているかどうかは、別の話だ。
その別だというところが、マーサにはうまく伝わらなかった。伝わらないので、それきりにした。
第四章 数えている
数えているのは、こちらだけだ。
かどは四つ。一回につき、二十秒から四十秒ほど待たせている。往復で八回。金曜のたびに、四分か五分。
三年で、百五十回を超えている。
この計算を、ウォルトは何度もしている。しても意味がないことは知っている。ハンクは絶対に数えていない。数えていたら、あの止まり方はしない。
数えているのが自分だけだ、というのが、いちばん妙なところだ。
借りは、両方が認めてはじめて借りになる。片方しか数えていないものは、何と呼べばいいのかわからない。
名前のないものが、金曜ごとに四分ずつ増えていく。
ウォルトは、数えるのをやめようとしたことがある。数えても仕方がないし、数えているとハンクに悪いような気がした。
やめられなかった。かどが見えると、体のほうが数えはじめる。
数えているのは頭ではないらしい、というのが、三年でわかったことの一つだ。
もう一つわかったことがある。数えているのは、返すためではない。返せないことは最初からわかっている。
それでも数える。数えていないと、受け取っていることにすら気づかない人になる気がする。気づいている、というのが、いまウォルトにできる唯一のことだ。
第五章 返せるもの
返せるものを、ウォルトは探したことがある。
勘定を持つ。それはやった。二回目にハンクが、順番だろ、と言って、以来は交互になった。
車を出す。ウォルトはまだ運転できる。ハンクの車が去年おかしくなったとき、二週間ほど毎朝送った。あれは返せた気がした。
あの二週間、金曜の夕方が少し楽だった。
楽だった、というのが自分でも情けない。送ったのはハンクのためのはずで、楽になったのはこちらの気持ちだ。返すつもりが、結局こちらのために動いていた。
車が直って、また元に戻った。
――振り返らずに、待っている。
いまウォルトが持っているもので、ハンクが必要としているものは、たぶん何もない。ハンクは元気で、家族もいて、困っていない。
困っていない人に返すのは、難しい。
いつか困る日が来れば返せる、とも思わない。そんな日を待つのは、相手の不幸を待つことになる。四十年の友人に対して、それはしたくない。
だから返せないまま、金曜は来る。
来なくなる日も、そのうち来るのだろう。どちらかが先に歩けなくなるか、いなくなるかする。そのときには、この四分も終わる。
終わらせ方がそれしかない、というのが、ウォルトには少しおかしい。おかしいと思ってから、笑うところではないな、と思い直す。
エピローグ
金曜の夕方になる。二人で家を出る。
一つ目のかどで、ハンクが止まる。道の先を見ている。
ウォルトが追いつく。ハンクは何も言わずに歩き出す。二人でまた、店のほうへ向かう。
――待たせた時間だけが、たまっていく。
あなたにも、相手が数えていないものがありますか。
あなたの魂のテーマに気づく場所