毎月、五万円
日本・現代。三十八歳の間宮亨は、九年前から毎月五万円を姉から受け取っている。姉は何も言わない。振り込みの通知だけが来る。働いていないわけではない。足りないだけだ。返す計画を立てたことは何度もあるが、立てるたびに、返す前提で暮らしていないことに気づく。姉に会うと、お金の話は出ない。出ないことが、いちばん重い。

朗読で聴く
第一章 二十五日
間宮亨は三十八歳になった。
九年前から、毎月五万円を姉から受け取っている。
二十五日に振り込まれる。通知が携帯に出る。亨はそれを見て、一度手が止まる。止まって、それから画面を消す。
姉は何も言わない。
振り込むときに連絡が来ることはない。金額を確認されたこともない。九年で一度も、その話が姉の口から出たことがない。
はじめの月だけ、亨のほうから礼を言った。姉は、うん、と言った。それだけだった。
次の月からは、亨も言わなくなった。言う場所がなかった。
毎月礼を言うのも変だし、言わないのも変だ。変ではないやり方が思いつかないまま、言わないほうに落ち着いた。落ち着いたというより、そのまま九年たった。
九年のあいだに、亨は一度も振込を止めてくれと言っていない。言えば止まるのかもしれない。止まったら暮らせないので、言えない。
第二章 足りない
働いていないわけではない。
これは、亨がはっきりさせておきたいことの一つだ。派遣で工場に入っていて、休んだのは数えるほどしかない。夜勤も入れている。
足りない。それだけのことだ。
家賃と、光熱費と、食費と、返している奨学金を引くと、月の終わりに三万か四万足りない。九年前からずっとそうで、五万円はその穴に落ちて消える。
残らないので、貯まらない。貯まらないので、返せない。
五万円が来なかった月を、亨は想像したことがある。家賃を遅らせて、次の月に二か月分を払い、そこからずっと遅れたままになる。想像はそこで止まる。止まるところから先が、たぶん本当のことだ。
だから、来ることを当てにしている。当てにしていることを、自分ではっきり認めたのは五年目くらいだった。
認めた日のことは覚えている。二十五日の朝、通知が出なかった。通知が五分ほど遅れただけだったのだが、そのあいだに胃のあたりが冷えた。冷えてから、ああ当てにしているな、と思った。
しばらくして通知が来た。安心して、その安心が嫌だった。
この計算は何度もやり直した。やり直しても同じところに来る。派遣の時給が上がったのは九年で二回、あわせて七十円だ。
資格の勉強をしたこともある。三か月続いた。夜勤明けの日に机に向かって、そのまま寝てしまう日が続いて、やめた。
やめたのは怠けたからだ、と亨は思っている。思っているが、夜勤明けに机に向かうのが正しいやり方だったのかは、いまでもわからない。正しくなかったとしても、ほかに時間がなかった。
やめたことを、姉には言っていない。始めたことも言っていない。
言えば、報告になる。報告になると、五万円が投資のようになる。姉はそんなつもりで出していないはずで、亨がそう扱ってしまうほうが失礼だ、という気がする。
気がするだけで、確かめたことはない。確かめるには、その話をしなければならない。
第三章 返す計画
返す計画は、何度も立てた。
紙に書いたこともある。月に一万ずつ返せば、四年半で追いつく。それを見ながら、亨は一つのことに気づいた。
一万返したら、その月は一万足りなくなる。
当たり前のことだ。当たり前なのに、紙に書くまでわからなかった。
頭の中では、いつか余裕ができたら返す、という形になっていた。余裕ができたら、というのは日付のない約束で、日付がないので破れない。破れない約束を、亨は九年持っている。
持っているだけで、誰にも渡していない。渡していないので、姉はその約束を知らない。知らない約束は、約束ではない。
計画を立てるたびに、同じところで止まる。返す前提で暮らしていない、ということに毎回気づく。
気づいたあとの数日は、少し息が浅い。
この計画を人に相談したことはない。相談すれば、支出を減らせと言われるだろう。減らせるところはもう減らしている。それを説明するところから始めるのが、いちばん重い。
説明の途中で、たぶん、五万円のことを言わなければならなくなる。
そのうち二十五日が来て、通知が出て、また止まって、また消す。
第四章 出ない
姉の由香とは、年に三度ほど会う。
正月と、母の命日と、あとは何かのついでに。会えば普通に話す。仕事の話、テレビの話、母の家の片づけの話。
お金の話は出ない。
九年間、一度も出ていない。姉が避けているのか、そもそも話題にする種類のことだと思っていないのかは、亨にはわからない。
一度、由香の夫と二人になったことがある。何か言われるかと身構えたが、天気の話をして終わった。身構えたこと自体が、あとで恥ずかしかった。
出ないことが、いちばん重い。
出れば、そこで何か起きる。責められるかもしれないし、いいのよと言われるかもしれない。どちらでも、一度は動く。
いいのよ、と言われるほうが、たぶんつらい。責められれば、返す理由ができる。いいのよと言われたら、返さないことが決まってしまう。
出ないので、動かない。九年ぶん、動かないまま積んである。
亨のほうから出すこともできる。できるが、出さない。出せば姉に何かを言わせることになる。言わせるところまで含めて、こちらが受け取ることになる。
誰も間違ったことをしていない。
姉は毎月振り込んでいる。亨は毎月受け取っている。どちらも黙っている。九年、これで回っている。
回っているものを、どこから止めればいいのかがわからない。
第五章 九年
九年で、五百四十万になる。
この数字を、亨は一度だけ計算した。計算してから、二度としないことにした。
総額は意味がない、と思うことにしている。毎月五万で、毎月消える。積み上がっているのは姉の側だけで、こちらには残っていない。
姉の側に何が積み上がっているのかも、本当はわからない。金額のことなのか、それとも別の何かなのか。聞けばわかるが、聞かない。
九年ぶんの数字より、聞かなかった回数のほうが多い。
残っていないものを、どう返すのかがわからない。
――返す計画は、何度も立てた。
姉には夫も子どももいる。うちも楽じゃないのよ、と言うのを聞いたことがある。そのときも、五万円の話は出なかった。
出なかったことを、亨はその夜ずっと考えていた。
姉が言わないのは、たぶん優しさだ。言えば亨が縮こまるのがわかっているのだろう。実際、言われたら縮こまる。
優しさなので、受け取るしかない。受け取るしかないものが、また一つ増える。
考えても、翌月も二十五日は来る。通知が出る。亨は一度止まって、画面を消す。
止まるのは一秒くらいだ。九年やっていても、その一秒は短くならない。慣れたのは、そのあと普通に出勤できることのほうだ。
エピローグ
二十五日の朝、携帯が光る。
亨は画面を見る。数字は毎月同じで、九年変わっていない。
止まって、消す。それからいつもどおり支度をして、出勤する。
――出ないことが、いちばん重い。
あなたにも、話に出ないまま続いているものがありますか。
あなたの魂のテーマに気づく場所