その手前で、話を変える
恐れ

朗読で聴く
第一章 三つ手前
笹本亮は三十六歳になった。
会社ではよく喋るほうだ。会議でも飲み会でも、話が途切れると何か言う。人と話すのが苦にならない。
ただ、話がある一点に近づくと、亮は必ずその手前で話を変える。
近づいてくるのは、三つ手前の文で分かる。
相手がこう言って、次にこう言って、そのあと必ずそこへ行く、という順番が見える。見えるというより、そういう形になっているのが分かる。だから亮は、二つ手前で助走をつけて、一つ手前で別の話に移す。
移し方は、そのときによる。質問を返すこともあるし、思い出したふりをして別のことを言うこともある。相手が飲み物を持っていれば、それの話をすればいい。
急に変えるとおかしいので、二つ手前から少しずつ寄せる。寄せておけば、変わったことにならない。ただ話が別のほうへ進んだ、という形になる。
この寄せ方が、亮のいちばん細かい技術だ。誰にも教えたことがないし、教えられるものでもない。
十年で、亮はこれが上手くなった。
誰も気づいていない。
気づかれないことが、この十年でいちばん確かめられたことだ。何度やっても、誰も、あれ、と言わない。会話は自然に続いていく。
自然に続いているので、亮のほうも、いま曲がったな、とすぐには思わない。あとで一人になったときに、今日も曲がったな、と思う。
第二章 断ったことはない
その話題を断ったことは、一度もない。
嫌だと言ったことも、話をそらしていますと言われたこともない。断るには、そこまで近づかなければならない。亮は近づいたことがない。
だから、亮の中には「断った記憶」がない。
あるのは、毎回うまく曲がった記憶だけだ。曲がったあとの会話は、たいてい楽しい。相手は満足して帰るし、亮も嫌な思いをしていない。
問題が起きたことは一度もない。
問題が起きないので、これは問題ではない、とも言える。
実際、亮はそう思ってきた。三十を過ぎたころまでは、自分がそういうことをしているという自覚もあまりなかった。
自覚したきっかけも、たいしたことではない。ある日、話を変えたあとで、いま変えたな、と思った。それだけだ。
思ってしまうと、次からは毎回わかる。わかっても、変えるのはやめられなかった。
第三章 何かがあったわけではない
何かがあったわけではない。
その話題で嫌な目に遭ったことはない。傷つけられたことも、誰かを傷つけたこともない。話したら困ることが起きる、という予測もない。
困ることを一つも思いつかないまま、避けている。
怖いという感じもない。近づいたときに胸が詰まるとか、汗が出るとか、そういうものは一度もなかった。あるのは、口が別の方向を向くことだけだ。
だから亮は、これを恐れだとは思っていない。恐れというのは、もっとはっきりしたものだと思っている。
もっと厄介なことがある。
そこに何があるのかを、亮も知らない。
避けている一点があるのは分かる。近づくと分かるからだ。しかし、その一点が何なのかは、亮にも見えていない。三つ手前で曲がるので、正面から見たことがない。
こういうことは、たぶんこうだろう、という当たりをつけたこともある。親のことだろうか、昔の仕事のことだろうか、と考えてみる。考えると、どれも違う気がする。違う気がするだけで、合っているかどうかは確かめようがない。
確かめるには近づかなければならない。近づくと、曲がる。
道を通らない人なら、その道が何丁目かは知っている。引き出しを開けない人なら、中に何が入っているかは知っている。亮の場合は、避けているものの名前が、はじめからない。
名前がないものを、十年避けている。
第四章 上手いということ
同僚の井坂は、亮のことをこう言う。
笹本は話しやすい。
上の人にも同じように言われる。人の話をよく聞くし、場が固くならない。実際、亮は聞くのがうまい。相手の話が続くように相槌を入れて、途切れそうになると引き出す。
誰も間違ったことを言っていない。
亮が場を回しているのは本当だ。回しているうちの何割かが避けるための操作だとしても、回っていることに変わりはない。
合っているが、当たってはいない。
話し上手というのは、話したいことを話せる人のことだと、亮は思っている。自分はそうではない。行かない場所を決めていて、そこを通らずに全部を喋っているだけだ。
外から見れば同じに見える。それは、避けているものが会話の中にしかないからだ。道なら遠回りが見えるし、引き出しなら開いていないのが見える。言葉は、変えたあとの形しか残らない。
変えなかった場合の会話は、どこにも存在しない。
第五章 十年ぶん
十年ぶん積むと、亮の話し方のほうがその一点を避ける形になっている。
人と話す前に、亮は少しだけ地図を引く。この人とはこの話になりそうだ、という見当をつける。つけておくと、当日は楽だ。
人を選ぶようにもなった。誘われても、この人とは長く話すことになりそうだという集まりは、うまく断る。断る理由はそのつど作る。理由はいつも成り立つ。
成り立つ理由を十年ぶん並べていくと、会わない人が何人かできている。
その何人かは、亮が嫌いな人ではない。むしろ、話していて面白い人が多い。面白い人は話が深いところまで行くので、亮の一点にも近づく。
だから、深く話せる相手ほど、亮は少しずつ会わなくなった。
――そこに何があるのかは、知らない。
一度だけ、曲がらずにいってみようと思ったことがある。
三十二の秋、後輩と飲んでいるときだった。三つ手前が来て、二つ手前が来た。亮は、今日はこのまま行こう、と思った。
一つ手前で、口のほうが先に別のことを言った。
言ってから気づいた。決めていたのに、間に合わなかった。そのあと後輩が笑って、話は別のところへ流れていった。
あれ以来、試していない。
試さない理由は、はっきりしている。決めても口が先に動くのなら、決めることに意味がない。
それに、あの夜のことを思い返すと、少し安心している自分がいる。行こうと決めて、行かずに済んだ。行かずに済んだことに安心したのだと、あとで気づいた。
気づいても、次の日も同じように話した。
エピローグ
今日も亮は誰かと話す。
三つ手前で分かって、一つ手前で曲がる。相手は気づかない。
避けるために、毎日組み立てている。
――組み立てたものが、話し方の形になっている。
あなたにも、避けるために組み立てているものがありますか。
あなたの魂のテーマに気づく場所