あなたの魂のテーマを探す に戻る

その引き出しは、開けない

恐れ

その引き出しは、開けない

朗読で聴く

第一章 下から二段目

宮下菜穂は四十九歳になった。

夫と、大学生の息子と、三人で暮らしている。家は十九年前に建てた建売で、台所は当時のままだ。

流しの下に、作り付けの引き出しが四段ある。菜穂はそのうち、下から二段目を開けない。

一番上は毎日開ける。箸やスプーンが入っている。一番下も開ける。鍋の蓋が入っている。二段目の下、つまり三段目も開ける。ふきんの替えが入っている。

二段目だけ、開けない。

中身は知っている。輪ゴムの束と、古い電池が何本かと、栓抜きと、たぶん洗濯ばさみが少し。十九年のあいだに何度か見ているので、だいたい覚えている。

普通のものしか入っていない。

それを知っていて、開けない。

隠しているものがあるわけではないので、菜穂は困っていない。困っていないから、誰にも言ったことがない。言うほどのことでもない。

言うほどのことでもないものを、十九年続けている。

第二章 手のほう

開けようと思わないわけではない。

輪ゴムが要るときはある。そういうとき、菜穂は一瞬その段のことを思い出して、それから別の場所を探す。買い置きの袋に入っていることがあるし、なければ買う。

思い出してから別を探すまでが速いので、避けたという感じがしない。

胸が苦しくなることも、手が震えることもない。台所に立つのが嫌なわけでもない。菜穂は料理をするのが好きで、一日のうちいちばん長くいる場所がここだ。

その場所に、開けない段が一つある。それだけのことだ。

台所は菜穂の場所で、どこに何があるかは全部わかっている。わかっているうちの一段だけが、手の届かないところにある。届かないのではなく、届かせないのだが、感じとしてはそれに近い。

拭き掃除のときが、いちばんはっきりする。

台所の引き出しは月に一度、前を拭く。一段目を拭いて、二段目を拭いて、三段目を拭く。二段目のとき、菜穂の手は前の面をなでて、そのまま次に行く。開けて中を拭くのは一段目と三段目と四段目だけだ。

開けないと決めているのではない。

決めているなら、そのつど決め直す感じがあるはずだ。そういうものはない。手が前で止まって、横にすべって、次の段に行く。それだけだ。

第三章 何かがあったわけではない

何かがあったわけではない。

この引き出しにものを隠したことはない。誰かのものが入っているわけでもない。開けたときに嫌なことがあったわけでもない。指を挟んだこともない。

建てたときからこの形で、最初の何年かは普通に使っていた。

引っ越してすぐの写真に、その引き出しが開いているものがある。息子が三つのころで、床に座って中のものを出している。菜穂が笑って撮ったのだろう。写真の中では、ただの引き出しだ。

いつからか、開けなくなった。

きっかけを思い出そうとしたことは何度かある。その年に何かあっただろうか、と考えてみる。息子の入学とか、母の入院とか、思い当たるものはいくつも出てくるが、どれもこの引き出しと結びつかない。

結びつけようとすると、嘘になる感じがする。

母の入院のときに何か入れただろうか、と考えて、入れていないと思い出す。息子の入学のころに何かあっただろうか、と考えて、何もなかったと思い出す。

思い当たるものが出てこないので、菜穂はいつも同じところで止まる。止まって、まあいいか、と思って、台所の続きをする。

だから菜穂は、これには理由がない、と思っている。理由がないものを、十九年やっている。

第四章 先に話す

家族がその段を開けようとすることは、たまにある。

夫が輪ゴムを探して、そのへんの引き出しを順に開けようとする。菜穂はそのとき、必ず先に口を開く。

あ、それ台所のじゃなくて、洗面所のほうにあると思う。

嘘ではない。洗面所にもある。夫はそちらへ行く。

息子のときも同じだ。何か探していると、その前に、それどこにあったっけ、と菜穂のほうから聞く。聞かれると、人は探すのをやめてこちらを見る。手が止まる。

十九年で、菜穂はこれがうまくなった。

急いで止めるとおかしいので、少し前から話を作る。だいたい三つ手前の引き出しのあたりで、別の話をはじめる。

誰も気づいていない。夫は菜穂が物の場所をよく覚えている人だと思っている。実際に覚えているので、それは間違いでもない。

息子は、母さんは口を出すのが好きだと思っている。それも半分は当たっている。菜穂は世話を焼くほうだ。焼くほうであることが、この場合は都合よく働いている。

自分の性格のうち、どこがこれに使われているのかを、菜穂はときどき考える。考えても、直しようがない。

どうしても開ける必要があるとき——電池が要るとか——は、菜穂は誰かに頼む。

ねえ、そこの二段目から電池取って。

自然に言える。頼む理由はそのつど作る。手が濡れているとか、火を見ているとか。夫は取ってくれる。開いた引き出しを、菜穂は見ない。見ないようにしているのではなく、そのあいだ別のところを見ている。鍋とか、換気扇とか、窓の外とか。見るものはいくらでもある。

第五章 十九年ぶん

十九年ぶん積むと、台所のほうがその段を避ける形になっている。

輪ゴムは買い置きの袋に入れる。電池は玄関の棚に置くようになった。栓抜きは別のを買って、一段目に入れた。二段目に入っているものは、全部どこかに二つ目がある。

そうやって、開ける用を減らしてきた。

減らしたことに気づいたのは、去年だ。玄関の棚に電池を置いたとき、なぜここなのかと自分で思って、少し考えて、わかった。

わかっても、電池は玄関に置いたままにした。

戻す理由がなかったからだ。玄関のほうが取りやすいし、家族も誰も文句を言わない。理由はまた、ちゃんと成り立った。

成り立つ理由を十九年ぶん並べていくと、一つの段だけが使われなくなっている。

いま台所を作り直したら、その段はなくなる。それで終わりのようにも思うが、たぶん違う。別の段ができて、そのうちの一つを開けなくなる気がする。根拠はない。

――中身は、知っている。

菜穂は一度、思い切って開けてみようと思ったことがある。

手をかけるところまで行った。指が引き手にかかって、そこで別のことを思い出して、お湯を止めに行った。戻ってきたときには、その気は消えていた。

消えたのではなく、消したのだろう。菜穂はそう思っている。思っているが、確かめる方法はない。

もう一度やってみようとは思わない。

思わない理由も、はっきりしている。開けたところで、明日また開けなくなるからだ。一度開けたから明日から使う、という話にはならない。十九年で組み立てたものは、一日では崩れない。

それに、開けてしまえば、輪ゴムと電池と栓抜きが出てくるだけだ。出てきたところで何も終わらない。終わらないものを開けて確かめる意味が、菜穂にはわからない。

エピローグ

朝、菜穂は一段目を開けて箸を出す。

二段目の前を通って、三段目からふきんを出す。

避けるために、毎日組み立てている。

――組み立てたものが、台所の形になっている。

あなたにも、避けるために組み立てているものがありますか。

ソウルミッション358

あなたの魂のテーマに気づく場所