本当のことは、言っていない
名前のないもの

朗読で聴く
第一章 同じ答え
小田圭は高校三年になった。
進路を聞かれると、圭はこう答える。
経済学部に行って、地元の銀行に入りたいと思っています。
三年間、この一つの答えを言っている。担任に、親戚に、母に、模擬面接の相手に。相手が変わっても、同じ言葉が同じ順番で出てくる。順番まで同じであることに、圭は途中から気づいた。気づいても、変える理由がなかった。
はじめて言ったのは、高校一年の秋の面談だった。
教室の隣の小さな部屋で、机をはさんで担任と向かい合った。椅子が二つあって、片方に担任が座り、片方に圭が座った。窓の外はもう暗くなりかけていた。
進路希望のことを聞かれて、圭には何もなかった。
ないという顔をしてはいけない気がした。何か言わなければいけない時間が、そこにあった。担任は待っている。待たれている時間は、思っていたよりも重かった。
父が信用金庫に勤めている。それで、その言葉が出た。
言ったあと、担任がうなずいて、紙に書いた。書かれたのを見て、圭は、これで終わったと思った。
実際、その日はそれで終わった。
第二章 二回目
二回目に聞かれたのは、その冬だった。
圭は同じことを言った。
違うことを言えば、前に言ったほうが嘘になる。嘘だったことになると、あのとき担任が紙に書いたことも、うなずいたことも、全部なかったことになる。それは面倒だ。面倒だから、同じことを言った。
三回目も同じことを言った。四回目も。
そのうち数えなくなった。
同じことを言うたびに、その言葉は少しずつ固くなった。はじめは、その場で拾った石のようなものだったのに、二年目には、もう外せない部品になっていた。外そうとすると、その周りについているものが全部動く。
一年生の終わりごろには、もう考えなくても言えるようになっていた。二年生では、聞かれる前から口が用意していた。三年生のいまは、言い終わるまで自分が何も考えていないことに、あとで気づく。
言葉が、口の形になっている。
模擬面接で、練習の先生に言われたことがある。
小田は言い慣れてるな。いいことだ。
いいことだ、と言われた。
圭は、はい、と答えた。それも、考えずに出た。
一度だけ、言い方を少し変えてみたことがある。「入りたいと思っています」を「入れたらいいなと思っています」にした。それだけのことなのに、言いながら足元が崩れる感じがあって、途中で元に戻した。
変えられるのは言い方だけで、中身は動かない。中身が動かないことのほうが、圭には不思議だった。
第三章 しっかりしている
大人は、圭のことをこう言う。
小田は早くから決まっていていい。
しっかりしている。
母は親戚にそう話す。正月に集まったとき、おじさんが、圭くんは偉いなあ、と言った。母は少し笑って、この子は昔からそうなんです、と言った。昔からそうだったかどうかは、圭にはよくわからない。
担任は面談のたびに、この調子でいこう、と言う。
誰も間違ったことを言っていない。
圭は三年間、同じ進路を言いつづけている。ぶれていない。外から見れば、それは決まっているということだ。決まっている生徒は、しっかりしている。そういうことになっている。
同級生の中には、何度も変える者がいる。夏に美容師と言い、冬に公務員と言う。担任はそのたびに困った顔をして、もう少し考えてみようか、と言う。
圭を見るときには、その顔にならない。
もう一つ、あの言葉には働きがある。言うと、その話が終わる。
進路の話は、たいてい長い。相手が心配していると、もっと長い。圭が例の一文を言うと、相手はうなずいて、次の話に移る。三年のあいだに、圭はその効き目を何度も確かめている。
しっかりしている、と言われたとき、圭は違いますとは言わない。言えば説明が要る。説明できるものが何もないので、そこから先は進めない。だから、ありがとうございます、と言う。それも滑らかに言える。
困らせないほうが楽だ、と圭は思っている。楽だと思っていることを、圭は誰にも言ったことがない。それを言うと、いまの言葉が崩れるからだ。
第四章 本当のほう
本当ではない。
銀行が嫌なわけではない。経済学部が嫌なわけでもない。行ってみたら合っているかもしれない。そういうことは、圭にもわかっている。
嫌かどうかの話ではない。
あれは、圭の中から出てきた言葉ではない、というだけのことだ。あの秋、時間を埋めるために外から取ってきた言葉で、取ってきたものが、そのまま三年ぶんの形になった。
では本当のほうは何なのか。
二年生の夏に、一度だけ確かめようとした。
進路希望調査の紙を前にして、いつもの言葉を書かずに、別のことを書いてみようとした。誰も見ていない部屋で、下書きのつもりで、まず一つ書いてみればいいと思った。
何も出てこなかった。
嫌だという気持ちはあるのに、そこに入れる言葉がない。空いている場所があるのはわかる。その場所の名前がない。名前がないものは、紙の上には置けない。
思いつくものを試してみた。どれも、当てはめようとした瞬間に外れた。当てはまらないということは、そこに何かの形があるということだ。形はあるのに、その形を言う言葉が世の中のどこにも見当たらない。
三十分そうしていて、圭はいつもの言葉を書いた。
書いたら、その日は終わった。終わったことに、少し安心した。安心したことのほうが、あとから嫌だった。
第五章 滑らかになる
最近、少し怖いことがある。
三年言っているうちに、あの言葉が、だんだん本当らしくなってきた。
嘘をついている、という感じが薄れている。銀行、と言うときに、以前は口の奥に引っかかるものがあった。いまはない。すっと通る。
通るようになったぶん、本当のほうが遠くなった。二年生の夏に見えていた空いている場所が、いまはどこにあったのかもよくわからない。
埋まったわけではない。見えなくなっただけだ、と圭は思っている。思っているが、埋まったのか見えないだけなのかを、確かめる方法がない。確かめるには、あの空いている場所をもう一度見つけないといけないが、見つけるための言葉が、はじめからないからだ。
――本当のことは、言っていない。
それだけは、まだわかる。
言い終わったあと、口の中に何も残らない。本当のことを言ったときには何かが残るはずだと、圭はなんとなく知っている。残らないことが、いまのところ唯一の目印になっている。
その目印が消えたら、そのときはもうわからない。
消えるのが先か、言葉が見つかるのが先かは、圭にもわからない。
エピローグ
面接の練習が終わる。先生が、いいですね、と言う。
圭は礼をして、廊下に出る。
窓の外は明るい。もう三年生の秋になっている。
言えることだけを、言っている。
――言えるほうだけが、滑らかになっていく。
あなたが、言えるほうだけを言っていることは何ですか。
あなたの魂のテーマに気づく場所