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もどして、おく

小学四年生。弟が動かした物を、必ず元の位置と同じ向きに戻す。戻すと、その部屋が終わる。戻さないと終わらない。母は「意地悪しないの」と言う。意地悪ではないが、それが何なのかは言えない。一度だけ「きたないから」と答えてしまい、その間に合わせの名前が通ってしまった。本当の名前はまだない。

もどして、おく

朗読で聴く

第一章 もとの場所

中井さやかは小学四年生になった。

弟のひろとは五つで、家の中のものをよく動かす。テレビのリモコンを持って歩き、途中で床に置く。積み木の箱から一つだけ出して、そのへんに置く。玄関の靴を並べかえる。悪気があってやっているのではない。ひろとはただ、そのとき手に持っていたものを、そのとき手から離しているだけだ。

さやかは、それを元の場所に戻す。

戻すというより、元の場所に置きなおす。リモコンはテーブルの手前の端に、テーブルのふちと平行に。積み木は箱の中の、他の積み木と同じ向きに。靴はつま先を外に向けて、二足のあいだを指一本分あけて。

全部、決まっている。

誰かが決めたのではない。決まっているのを、さやかが知っているだけだ。

どうやって知ったのかを、さやかは考えたことがない。気がついたときには知っていた。リモコンがテーブルのふちと平行でないと、それは置かれているのではなく、落ちているように見える。落ちているものは、拾わなければいけない。それだけのことだ。

だからさやかは、部屋に入るとまず見る。動いているものがあるかどうかを見る。あれば戻す。なければ何もしない。それだけのことで、時間もかからない。長くても一分くらいだ。

一分で済むことなので、さやかは、これが自分だけのことだとは長いこと思っていなかった。みんなやっていて、みんな言わないのだと思っていた。

いちばん手がかかるのは玄関だ。ひろとは靴を脱ぐとき、脱いだ勢いのまま置いていく。片方が横を向いていたり、上がり口に半分乗っていたりする。さやかは学校から帰るたびに、自分の靴を脱ぐ前に、ひろとの小さいほうを直す。つま先を外に向けて、自分のと指一本分あける。そうしてから、自分の靴を脱ぐ。

順番も決まっている。ひろとのが先で、自分のがあと。逆にすると、そこはまだ終わらない。

第二章 終わりの合図

戻すと、その部屋が終わる。

終わるという言い方が正しいのかはわからないが、さやかの中ではそうなっている。全部が元の場所にあると、その部屋のことは、もう考えなくてよくなる。

考えなくてよくなると、次のことができる。宿題をするとか、テレビを見るとか、そういうことだ。

戻っていないと、次のことができない。

できないというのは、体が動かないという意味ではない。宿題を広げることはできる。鉛筆を持つこともできる。ただ、リビングのリモコンが床にあるということが、頭の中でずっと鳴っている。鳴っているあいだは、書いていても、書いているという感じにならない。

鳴っている、というのも本当は違う。音ではない。音ではないものを言う言葉を、さやかは持っていないので、鳴っていると思っている。

一度、我慢してみたことがある。ひろとが動かしたコップをそのままにして、自分の部屋に行って、ドアを閉めた。

三十分たって、さやかは戻ってきてコップを置きなおした。

置いた瞬間、頭の中が静かになった。静かになってはじめて、ずっと鳴っていたのだとわかった。

我慢はもうしない。三十分かけて元に戻るなら、はじめに一分使うほうがいい。それはさやかにとって、我慢の話ではなく、順番の話だった。

第三章 意地悪

母の佳代は、それを見ている。

ある日、ひろとが積み木を出して遊んでいる横で、さやかが出しっぱなしの一つを箱に戻したとき、佳代が言った。

さやか、意地悪しないの。せっかく遊んでるんだから。

さやかは手を止めた。

意地悪ではない。ひろとに遊ぶなと言ったことは一度もない。ひろとが遊びおわってから戻している。いま戻したのは、ひろとがもうその積み木を使っていなかったからだ。

でも、それを説明しようとして、口の中で何も出てこなかった。

説明しようとすると、はじめから話さなければいけない。戻すと部屋が終わること。終わらないと頭の中で鳴りつづけること。鳴っているという言葉が正しいのかもわからないこと。

どこから話しても、途中で止まる。

四年生は、聞かれたら答える年になっている。学校でも、どうしてそう思ったのか、と先生が聞く。さやかはたいてい答えられる。算数のことも、日直のことも、答えられる。

佳代は待っていた。聞かれたら答えられるはずだと思っている。それは当たり前のことだ。さやかも、答えられるはずだと思っている。

答えられない。

答えられないことがある、ということのほうが、さやかには初めてだった。

第四章 きたないから

さやかは、こう言った。

だって、きたないから。

佳代は、ああ、と言った。それならわかる、という顔だった。じゃあ、ひろとが遊びおわってからね、と言って、台所に戻っていった。

通った。

その日から、それはさやかの「きれい好き」ということになった。佳代は人にそう話す。さやかはきれい好きだから、と。おばあちゃんにも、担任の先生にも、そう伝わっている。参観日に、佳代と先生がその話をしているのを、さやかは廊下で聞いた。

間違ってはいない。結果だけ見れば、さやかは片づける子だ。

ただ、本当ではない。

さやかは、きたないのが嫌なわけではない。自分の机の引き出しの中はぐちゃぐちゃで、それは平気だ。引き出しの中には、元の場所というものがまだできていないからだ。

できているところと、できていないところがある。リビングにはできていて、引き出しにはできていない。学校の自分の席にはできていて、教室の後ろの棚にはできていない。その線がどこにあるのかは、さやかにもわからない。ただ、入ると、できているかどうかはすぐわかる。

その違いを言う言葉を、さやかは持っていない。

「きれい好き」という名前は、間に合わせで出した名前だった。間に合わせのつもりだったのに、それで通ってしまった。

第五章 通ってしまったあと

名前がついてから、さやかは少し楽になった。

聞かれても、答えがあるからだ。きたないから。それで会話が終わる。終わってくれるのは助かる。

同時に、少し遠くなった。

佳代が「さやかはきれい好きだから」と言うたびに、さやかの中の本当のほうが、一枚ずつ後ろに下がる。誰も間違ったことを言っていないのに、下がる。

ひろとは、姉が自分のあとを片づけていることを、たぶん知らない。知っていても、嫌がってはいない。ひろとにとって、家はいつも同じ形をしている場所で、それがなぜなのかを考えたことがない。さやかはそれでいいと思っている。

そのうち、本当のほうが、どこにあったのかわからなくなるのかもしれない。大人になって、きれい好きだったんですよ、と自分でも言うようになるのかもしれない。そのときには、もう鳴っていた頃のことを思い出せないのかもしれない。

――きたないから、といった。

でも、いまはまだわかる。

さやかはリビングに入って、床の積み木を拾う。箱の中の、他と同じ向きに置く。

置いてから、その部屋を出る。

エピローグ

部屋が終わる。頭の中が静かになる。

その静かさに、名前はまだない。

――間に合わせの名前が、ついてしまう。

あなたにも、間に合わせの名前で呼ばれているものがありますか。

ソウルミッション358

あなたの魂のテーマに気づく場所