にぎってから、ねる
四歳。寝る前に布団の同じ角を握らないと眠れない。同じところでないとだめで、なぜかは自分でもわからない。母は「くせだね」と言う。くせではない、と本人は知っているが、それを何と呼ぶのかをまだ知らない。名前のないものが、もう始まっている。大人がつけた名前は間違ってはいないが、本人のものではない。

朗読で聴く
第一章 はじっこ
高橋ひなたは四つになった。
夜、布団に入ると、ひなたはまず右手を伸ばす。掛け布団の、頭のほうの左のかど。そこを探して、握る。
握ってから、目をつぶる。
握らないと眠れない。眠れないというより、眠るという感じにならない。目をつぶっても、体のどこかがまだ立っている。
かどはいつも同じところでなければいけない。反対側では、だめだ。同じ布団の、同じかど。洗濯した日は、においが違うので、少し長く握っている。
握り方も決まっている。手のひら全部ではなく、親指と、その隣の指のあいだに挟むようにする。強くはしない。挟んで、そのまま置いておく。
どうしてそうなのかを、ひなたは知らない。
布団は五つになったときに新しくしたが、そのときも同じことをした。新しい布団のかどは、はじめは固かった。二か月ほどして、ちょうどよくなった。
知らない、という言い方も正しくない。ひなたの中には、それがある。あるのだが、それを外に出す道具を、ひなたはまだ持っていない。
第二章 くせだね
母の絵里は、それを知っている。
寝かしつけのときに何度も見ているから、当然知っている。ひなたが手を伸ばしてかどを探すのを待ってから、電気を消す。
一度、絵里はこう言った。
ひなたは、これ握るのがくせだね。
ひなたは返事をしなかった。
ちがう、と思ったからだ。
くせ、というのは、爪を噛むとか、髪をさわるとか、そういうもののことだ。それは知っている。保育園の先生がそう言っているのを聞いたことがある。
これは、それではない。
でも、ではこれは何なのかと聞かれると、ひなたには答えられない。だから返事をしなかった。絵里は、そうだねえ、と言って電気を消した。
絵里は間違ったことを言っていない。外から見れば、たしかに、くせだ。
その日から、ひなたは絵里が部屋にいるあいだ、かどを探すのを少し遅らせるようになった。絵里が出ていってから、暗い中で手を伸ばす。隠しているつもりはない。ただ、見られながらやると、あれが「くせ」になってしまう気がする。
第三章 言葉のほう
ひなたは、言葉を毎日おぼえている。
保育園で、家で、テレビで。おぼえた言葉は、たいてい役に立つ。おなかがすいた。まだ眠くない。それはひなたのじゃない。言えば、たいていのことは伝わる。
伝わらないものが、一つだけある。
ほかにもあるのかもしれないが、ひなたが気づいているのは一つだ。気づいていないものは、気づいていないので数えられない。
布団のかどのことだ。
言葉は、ひなたの外にある。だれかが先に作って、そこに置いてある。ひなたはそれを取ってきて、使う。取ってこられるものは、伝えられる。
布団のかどのことは、まだどこにも置かれていない。
ひなたはそれを、そういうふうには考えていない。ただ、言おうとすると、口の中で何もできなくなる、ということを知っている。
一度だけ、兄に言おうとしたことがある。兄は七つで、ひなたよりずっと言葉を持っている。ふとんの、と言いかけて、その先が出てこなかった。兄は、なに、と聞いた。ひなたは、なんでもない、と答えた。それは言えた。
第四章 だれも見ていない
保育園の昼寝の時間に、ひなたは眠れない。
布団が違うからだ。園の布団には、あのかどがない。かどはあるのだが、あのかどではない。
先生は、ひなたちゃんはお昼寝が苦手だね、と言う。
それも、ちがう。
ひなたは目をつぶって、天井を見ないようにして、時間が過ぎるのを待つ。まわりの子はすぐ眠る。ひなたはたいてい最後まで起きている。
このことも、家では言わない。
言わない理由は、はっきりしている。言えば絵里は、園の先生に話すだろう。先生は何かをしてくれるだろう。タオルを持たせるとか、そういうことだ。
それは、たぶん違うものになる。
園でタオルを握って眠れるようになったら、それはそれで困らない。困らないのだが、家の布団のかどと、園のタオルは、たぶん別のものだ。同じ「握るもの」にされてしまうと、家のかどのほうが薄くなる気がする。
ひなたにはそれが、なんとなくわかる。わかるのに、なぜわかるのかは、やはり言えない。
園の昼寝の時間、ひなたは目をつぶったまま、家のかどのことを考えている。考えているうちに時間が過ぎる。それで足りている。
第五章 いつか
ひなたはいつか、この言い方をおぼえるかもしれない。
大きくなって、言葉をたくさん持って、あのころのあれはこういうことだった、と言えるようになるかもしれない。
そのとき、それはたぶん少し違うものになっている。
いま四つのひなたの中にあるものは、名前がないままそこにある。名前がないので、減りも増えもしない。誰にも渡せないかわりに、誰にも動かせない。
――なんていうのかを、まだしらない。
ひなたは今夜も、右手を伸ばす。同じかどを探して、握る。
握ってから、眠る。
エピローグ
電気が消える。部屋が暗くなる。
布団のかどは、ひなたの手の中にある。
目をつぶる。体のどこかが、やっと横になる。
――名前のないものが、もう始まっている。
あなたにも、名前のないものがありますか。
あなたの魂のテーマに気づく場所