もう待ってはいない
待つこと

朗読で聴く
第一章 いつものベンチ
十一月三日、午後六時四十分。中野瑞穂は公園のベンチに座っている。
四十三になった。この公園には、二十年、週に一度来ている。
ベンチは三つある。瑞穂が座るのは、入口からいちばん遠い一つの、右の端だ。座面のそこだけが少し黒ずんでいる。瑞穂が座るからそうなったのかと思っていたが、二十年前から既にそうだった。誰か別の人が長く座っていたのだろう。
背中を預けると、背もたれの木の形が背中に合う。二十年でそうなったのか、もともと合っていたのかは、わからない。
六時四十分に来て、十五分ほど座って、帰る。
その間に何をするわけでもない。
本を持ってくることもない。以前は持ってきていたが、読んでいると時間が過ぎるのが速くて、それでは来た意味がないような気がしてやめた。意味があるのかどうかも、よくわからないのだが。
第二章 二十年前の約束
二十三のとき、瑞穂は同じ工場で働いていた由美という同い年の子と、この公園で会う約束をした。
十一月三日の、午後六時四十分。
二人で店を出す話をしていた。本気なのか、話しているだけなのか、瑞穂にもよくわからなかった。ただ、その日に会って、決めることになっていた。
由美は来なかった。
瑞穂は七時半まで待って、その日は帰った。翌朝、寮の由美の部屋は空になっていた。会社にも連絡がなかったという。荷物は前の晩のうちに運び出されていたらしい。
それきり、二十年、由美からは何もない。
由美がどんな声だったかは、まだ覚えている。笑うときに、すこし息が漏れる笑い方だった。顔のほうは、写真が一枚もないので、年々あやしくなっている。
何があったのかは、いまもわからない。家の事情だったのか、別の理由だったのか。同僚の誰も知らなかった。瑞穂は一度、共通の知り合いに手紙を出したが、返事は来なかった。
第三章 最初の三年
最初の一年、瑞穂は毎日この公園に来た。
六時四十分に座って、暗くなるまでいた。雨の日は傘をさして立っていた。来るはずがないと思いながら、来たら困ると思うほうが強かった。あの日のことを、由美が忘れているとは思えなかったからだ。
二年目から、週に一度になった。
減らしたというより、来られない日が出はじめて、そのまま週に一度で落ち着いた。減らすときに、少し後ろめたい気持ちがあった。いま思うと、誰に対して後ろめたかったのかもわからない。
三年目に、瑞穂は結婚の話を断った。相手のせいではない。ただ、そのころは何を決めるのもこわかった。いま思えば、あれは由美と関係のないことだったのかもしれないし、関係があったのかもしれない。
四年目からは、水曜だったのが日曜になり、日曜のまま二十年が過ぎた。
瑞穂はいま、市の図書館で働いている。悪くない仕事だと思っている。
同僚にも、友人にも、この公園のことは話していない。話す機会がないのではなく、話すと説明が要るからだ。二十年前の約束を、いまも守っているわけではない。守っていないのに来ている、というところを説明できる気がしない。
第四章 やめた日
いつ待つのをやめたのかは、覚えていない。
三十を過ぎたあたりだろうと思う。ある年から、六時四十分に入口のほうを見なくなった。それに気づいたのは、さらに何年かあとだ。
いまはもう、来ないとわかっている。
由美はいま四十三で、どこかで別の生活をしているのだろうと思う。子どもがいるかもしれない。この公園のことなど、とうに忘れているだろう。忘れていてくれたほうがいい、と瑞穂は思っている。
わかっている、というのは、たぶん正確ではない。由美が生きているかどうかも知らないのだから、来ないと言い切れるものでもない。ただ、瑞穂の中では終わっている。終わったことと、そのことが悲しいかどうかは、別だ。
それでも日曜の六時四十分には、ここに来て座る。
待っていないのに座っている、というのは、自分でも変だと思う。変だと思いながら、二十年やっている。
――やめたのに、座ることだけが残った。
第五章 毎週の人
公園には、毎週この時間に落ち葉を掃いている人がいる。
竹内さんという、七十くらいの男の人だ。市の委託なのか、近所の人が勝手にやっているのかは知らない。落ち葉を集めて、園路の端に小さな山を作って、帰っていく。
その山は、次の日にはたいてい無くなっている。誰かが持っていくのか、風で散るのか、瑞穂は見たことがない。
竹内さんがいつから掃いているのかも知らない。瑞穂が来はじめたころには、もういた気がする。
二人とも同じ公園に、同じ時刻にいる。片方は落ち葉を集め、片方はベンチに座っている。どちらも、そこにいる理由を相手に話したことがない。
去年の秋、竹内さんが一度だけ、通りすがりに言った。
――毎週、いらっしゃいますね。
瑞穂は、ええ、と答えた。竹内さんはうなずいて、そのまま行った。それだけだ。
その日の帰り道、瑞穂は少し落ち着かなかった。見られていたと思ったからではない。二十年やっていたことを、初めて外から言葉にされたからだ。
次の日曜も、瑞穂はベンチに座った。
竹内さんはその日も落ち葉を掃いていた。目が合ったが、どちらも何も言わなかった。それでよかったと思っている。
エピローグ
六時五十五分。空の下のほうの色が、もう消えかけている。
瑞穂は立ち上がって、コートの背中を軽く払う。
来週も、たぶん来る。
――終わったのに、続くことがある。
あなたが、終わったのに続けていることは何ですか。
あなたの魂のテーマに気づく場所