上の音が、しない
待つこと

朗読で聴く
第一章 六時四十分
十一月三日、午後六時四十分。矢野真知子は台所で包丁を置いた。
置いたつもりはない。手が止まったので、置いた形になっただけだ。
四十九になった。この部屋に十二年住んでいる。二階建ての、各階に四戸ずつの、古い集合住宅の一階だ。
六時四十分になると、真知子の手は止まる。天井を見るわけでもない。ただ、動きが一度止まって、それから続きをする。
上の階の人が帰ってくる音を待っている。
鍵の音がして、扉が開いて、閉まる。三歩か四歩、廊下を歩く音。そのあと、椅子を引く音がひとつ。だいたいそれで終わる。時間にすれば十秒もない。
それを聞いてから、真知子は夕食の続きにかかる。
いつから始めたのかは覚えていない。引っ越してきた最初の年に、上の音で時刻がわかると気づいて、それが便利だったのだと思う。便利さは途中でどこかへ行って、習慣だけが残った。
十二年、そうしている。
第二章 顔を知らない
上の階の人の顔を、真知子は知らない。
名前も知らない。郵便受けに名字は出ているが、見ないようにしている。見てしまうと、次に音を聞いたときにその名字が浮かぶ。そうなると、音が人になってしまう。
人になってほしくない理由は、うまく説明できない。
たぶん、音のままなら何も要らないからだ。名前を知れば、次は具合を気にする。具合を気にすれば、いつか声をかける。声をかければ、関係になる。関係になったものは、いつか終わる。
十二年のあいだに、階段ですれ違ったことは何度かあるはずだ。ただ、それがあの人だったかどうかがわからない。この建物には八世帯いる。誰の顔も、はっきりとは覚えていない。
挨拶はする。おはようございます、こんばんは。それだけだ。
真知子はこの町に、親しい人をほとんど持っていない。作らなかったわけでも、作れなかったわけでもない。四十を過ぎたころから、そういうものが少しずつ減って、いまの数になった。
母は七年前に亡くなった。父はその四年前。きょうだいはいない。年に一度、いとこから年賀状が来る。
減ったことを、寂しいと思ったことはあまりない。
仕事は市内の事務所で、九年になる。同僚とは仲が悪くない。誘われれば飲みにも行く。行った翌日は少し疲れる。
ただ、六時四十分の音だけは、無いと困る。
第三章 三週間
その音が、三週間前から聞こえない。
最初の二日は、遅いのだろうと思った。三日目に、旅行かと思った。一週間を過ぎたころから、真知子は毎晩、六時四十分に手を止めたまま、しばらく動かなくなった。
三週間になる。
そのあいだに、上の階から音がまったくしなかったわけではない。水の流れる音が一度した。あれが上だったのか隣だったのかは、真知子にもわからなかった。
考えられることはいくつもある。引っ越したのかもしれない。入院したのかもしれない。実家に帰ったのかもしれない。あるいは、そうでないことも。
どれなのかは、管理人に聞けばわかる。
木村さんという人で、週に二度は建物に来る。掃除をしながら、誰が出て誰が入ったかを全部話してくれる。聞けば五秒で終わる。
聞いていない。
木村さんとは先週も立ち話をした。玄関前の落ち葉の話をして、寒くなりましたね、と言って別れた。上の階のことは、口に出さなかった。
第四章 聞かない理由
聞かない理由を、真知子は自分でも何度か考えた。
こわいからではない。悪い知らせを聞きたくない、というのとも少し違う。
聞いてしまったら、待つのをやめなければならないからだ。
引っ越しました、と言われれば、それで終わる。入院しています、と言われても、たぶん終わる。何であれ、答えが出た瞬間に、六時四十分は普通の時刻に戻る。
真知子はそれを惜しんでいる。
顔も知らない人の帰宅を、十二年ぶん聞いてきた。相手はそれを知らない。知らせるつもりもなかったし、いまもない。あれは真知子の側にだけあったもので、答えが出たら、真知子の側から消える。
だから聞かない。
これは自分に都合のいい理屈だと、真知子はわかっている。もしあの人に何かあったのなら、聞かないでいることは冷たいのかもしれない。そう思いながら、聞いていない。
――もう少し、わからないままでいい。
第五章 音ではなかった
三週間のあいだに、真知子は気づいたことがある。
音がしなくなっても、六時四十分には手が止まる。
止まって、少し待って、それから続きをする。音が来ないとわかっているのに、手のほうは変わらない。十二年で体に入ったものは、対象が消えても残るらしい。
それで真知子は考えた。自分が待っていたのは、あの音だったのだろうか。
音は合図でしかなかったのかもしれない。合図があってもなくても、六時四十分に一度止まるという時間が、真知子には要る。
同じ町の同じ時刻に、たぶん似たようなことをしている人がいる。会ったことはないし、これからも会わない。それでいいと思う。
この町には二万人が住んでいるという。二万の家で、いま同じ時刻が過ぎている。そのうちの何人かは、たぶん何かを待っている。誰が何を待っているのかは、誰にもわからない。
待つ相手がいなくなっても、待つ形だけが残る。それはたぶん、悪いことではないのだろうと真知子は思う。形が残っていれば、また何か来たときに、受け取る場所がある。
包丁を持ち直す。にんじんの続きを切る。
窓の外の空は、下のほうだけがまだ薄い。
エピローグ
六時四十一分。上の階は、静かなままだ。
真知子は手を止めていたぶんだけ、いつもより少し遅く食卓に着く。
明日も、たぶん同じことをする。
――待っているのは、音ではなかったのかもしれない。
あなたが、来るかどうかわからないまま待っているものは何ですか。
あなたの魂のテーマに気づく場所