見返さない一枚
証し

朗読で聴く
第一章 一日に一枚
グレイス・ウィルクスは、寝る前に一枚だけ写真を撮る。
三十四になった。十年続けている。何を撮るかは決めていない。その日の終わりに、いちばん覚えておきたいと思ったものを一枚だけ。窓の外のこともあるし、流しに置いた皿のこともある。何もなかった日は、天井を撮る。
撮るとき、グレイスは息を止めている。
自分でそうしているつもりはない。ある日、撮ったあとに息を吐いていることに気づいて、それで知った。十年で体がそうなったらしい。
始めたきっかけは、たいしたことではない。二十四のときに引っ越して、部屋が広すぎて落ち着かなかった。何か毎日やることを作ろうと思って、これにした。三日でやめるつもりだったのが、十年になった。
撮った写真は、三千枚を超えた。
見返さない理由も、はっきりしない。見たくないのではない。順番が来ていない、という感じに近い。いつか見るのかもしれないが、その日がいつなのかは自分でも決めていない。
一度も見返していない。
第二章 全部が残る仕事
グレイスの仕事は、すべてが記録される。
入った時刻、出た時刻、どの画面をどれだけ開いていたか、どの案件をいつ閉じたか。月末には、それが一覧になって届く。数字はいつも正しい。
正しいのに、そこには何も書かれていない。
あの日、あの人の話を三十分聞いたことは、記録では「対応時間三十二分」になる。切ったあとにしばらく席を立てなかったことは、どこにも入らない。その次の週に、あの人からまた電話が来て、声が少し明るかったことも、入らない。
同僚たちは、その一覧をあまり見ない。見ても、数字が並んでいるだけだからだ。上の人間は見る。見て、翌月の目標を決める。誰も嘘はついていないし、誰も悪くない。ただ、そこに書かれているものと、その日にあったことは、別のものだ。
全部が記録されるのに、自分がやったことは何も残らない。
だから撮っているのだろうと、グレイスは思っていた時期がある。仕事で残らない分を、自分で残しているのだと。
仕事で残らないものを埋め合わせているなら、仕事を辞めたらやめるはずだ。二年前に一度、二か月休んだことがある。そのあいだも、毎日撮っていた。
いまはそう思っていない。
第三章 ジョーダンの歩数
同居人のジョーダンは、毎日の歩数を数えている。
朝起きて、寝る前に確かめる。少ない日は、夜に近所を一周してくる。八年続けているという。
何のためかと聞いたら、ジョーダンは、数えてないと自分が動いてない気がするから、と言った。数字を誰かに見せるわけでもない。競っている相手もいない。
その説明を、グレイスはよくわかると思った。
二人とも同じ部屋にいて、片方は歩いた数を数え、片方は一日に一枚撮っている。どちらも誰にも見せない。ジョーダンはグレイスの写真を見たことがないし、グレイスもジョーダンの歩数を覚えていない。
聞かないのは、興味がないからではない。聞いてしまうと、こちらも説明しなければならなくなる。自分が毎晩一枚撮っていることを、言葉にして人に渡すところを、グレイスは想像できない。
一度だけ、ジョーダンに、写真撮ってるよね、と言われたことがある。グレイスは、うん、と答えた。それだけで終わった。あれはたぶん、ジョーダンのほうも同じことを考えていたのだと思う。
聞けば教えてくれるだろう。聞いたことがない。
第四章 わからなかった一枚
去年、携帯を替えた。
古いほうから写真を移して、移し終わったあとに、いちばん古いあたりを一枚だけ開いてみた。十年前のものだ。
何が写っているのか、わからなかった。
室内で、床の一部と、椅子の脚が写っている。ピントは合っている。手ぶれもしていない。ただ、それがどこの部屋なのか、なぜそれを撮ったのかが、まったく思い出せなかった。
グレイスはしばらくそれを見ていた。
撮った日には、たしかに何かがあったはずだ。その日の終わりに、これを残しておきたいと思ったのだから。その何かは、写真には写っていない。
三千枚が同じなのだろう。グレイスはそう思った。全部残っていて、全部わからない。
容量はいくらでもある。消さずに置いておける。百年でも置いておける。置いておけることと、残ることは、別のことだった。
残しているのに、残っていない。
第五章 それでも撮る
やめようかと思った時期が、少しだけあった。
意味がないなら、やめてもいいはずだった。誰に頼まれたわけでもない。やめても誰も気づかない。
やめなかった。
やめようとした週に、いつもより長く迷った。何を撮るかを決めるのに時間がかかって、結局その日も撮った。迷っている時間のほうが、撮ることそのものより大事なのかもしれない、とそのとき思った。
理由は、いまでもうまく言えない。撮っている一秒か二秒のあいだ、その日が終わったということが、はっきりする。そのあとで写真がどうなるかは、たぶん関係がない。
祖父が煉瓦職人だったことを、グレイスは知っている。父のマーカスから聞いた。腕がよくて、この町の建物をいくつも積んだ、というくらいのことだ。祖父が現場でどう働いていたのかは、聞いていない。父も知らなかったのだと思う。
祖父は、グレイスが六つのときに死んだ。覚えているのは、手が大きかったことと、話すのが遅かったことくらいだ。膝に乗せてもらった記憶はあるが、何を言われたかは覚えていない。
グレイスは祖父の写真を一枚だけ持っている。若いころのもので、笑っていない。
もし祖父に、毎日やっていたことがあったとしても、グレイスには知りようがない。父も知らない。聞ける相手はもういない。
その手が何をしていたのかは、写っていない。
――残らないほうが、続くのかもしれない。
エピローグ
夜。部屋の明かりを落とす前に、グレイスは一枚撮る。
今日は窓のそばの、何もない床を撮った。息を止めて、撮って、吐いた。
その写真を、たぶん一生見返さない。
――記録は、あかしにならない。
あなたが毎日残しているものは、残っていますか。
あなたの魂のテーマに気づく場所