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名前だけが、残る

一九五〇年代のアメリカ。038と同じ町の同じ現場の、現場監督。建物の石に名前が彫られる側にいる。しかし彫られるのは名前だけで、毎日何十と下してきた判断はどこにも残らない。だから毎晩、その日に決めたことを手帳に書く。誰にも見せない。死んだら捨てられると知っている。一度だけ、名前を書かずに書いた行がある。

名前だけが、残る

朗読で聴く

第一章 石の名前

通りのかどの学校の、基礎の石に、ハロルド・ベイリーの名前が彫ってある。

六十一になった。現場監督を四十年やって、この町に建てた建物は二十を超える。そのうち三つの石に、名前が入っている。所長のマーサーの名前が上にあって、その下に小さく、監督として彫られている。

彫られた日のことを、ハルは覚えている。嬉しくはなかった。

嬉しくなかった理由が、そのときはわからなかった。式が終わって、家に帰って、夕食を食べているあいだも考えていた。イーディスに、どうしたのと聞かれて、何でもない、と答えた。

式には、石を彫った職人も、積んだ職人も来ていなかった。呼ばれていなかったのだと思う。そのことに気づいたのは、ずいぶんあとになってからだ。

いまはわかる。

石に入っているのは、ハロルド・ベイリーという六文字だ。あれは自分ではない。

自分は、あの建物のためにおよそ千二百日ぶんの判断をした。この目地はやり直させる。この雨なら今日は積ませない。この材料は返す。この段取りでは間に合わないから順番を変える。そのひとつひとつが積み重なって、あの学校が建っている。

会社の帳簿には、工期と、人数と、かかった金が入っている。それは正確な記録で、いまも保管されている。ただ、そこに書いてあるのは結果だけだ。どの朝に何を迷って、どちらに決めたかは、ひとつも入っていない。

そちらは、どこにも残らない。

第二章 毎晩の三行

だからハルは、書く。

現場を閉めて、事務所の机に座って、その日に決めたことを手帳に書く。短いこともあるし、長くなることもある。四十年、一日も欠かしていない。

誰にも見せない。イーディスにも見せていない。

書くとき、ハルは左手で紙を押さえる。癖だ。紙が動くわけでもないのに、必ず左を押さえてから書く。四十年で、手帳の左の小口だけが黒くなった。新しい一冊を下ろすたびに、また同じところが黒くなっていく。

万年筆は、二十代のときに買ったものを使っている。何度か修理に出した。同じ筆記具で四十年書いていると、字の癖のほうが道具に合わせて変わってくる。

書いた内容を、あとから読み返すことはほとんどない。

一度、なぜ書くのかを自分に聞いてみたことがある。答えは出なかった。記録のためではない。会社の帳簿には別の記録があるし、そちらのほうがよほど正確だ。誰かに読ませるためでもない。

若いころは、いつか役に立つかもしれないと思っていた。裁判になったときとか、責任を問われたときとか、そういう場面を漠然と想像していた。四十年やって、一度も役に立ったことはない。

ただ、書かないと、その日が無かったことになる気がする。

第三章 イーディスの庭

イーディスは、庭に何をいつ植えたかを紙に書いている。

結婚してすぐに始めたから、こちらも四十年近い。何を、どこに、何月何日に植えたか。芽が出たかどうか。枯れたら、枯れたと書く。

枯れた記録のほうが多い、とイーディスは笑って言う。

ハルはその紙を見たことがある。台所の引き出しに束ねてあって、日付と、植物の名前と、短い言葉が並んでいた。庭は、いまはもう半分が芝になっている。書かれている植物の大半は、そこにない。

二人とも四十年、同じ家で別々のものを書いている。イーディスは地面に起きたことを書き、ハルは自分が決めたことを書く。どちらも誰にも読まれない。

イーディスの紙は、たぶん娘が捨てる。ハルの手帳も、たぶん同じだ。

一度だけ、イーディスが、あなたの手帳には何が書いてあるの、と聞いたことがある。ハルは、仕事のことだよ、と答えた。イーディスは、そう、と言って、それきり聞かなかった。

あのとき本当のことを言えばよかったとは、思っていない。言葉にすると、たぶん小さくなる。

二人ともそれを知っていて、何も言わない。

第四章 名前を書かなかった行

三十年ほど前、ハルは忘れ物を取りに現場へ戻ったことがある。

日はもう落ちていた。壁の前に、煉瓦工が一人残っていた。ウィルクスという男だ。腕のいい職人で、目地の厚みが四十年変わらないと評判だった。

その男が、最後の一個を左手で置いた。

ハルは足を止めた。その日の作業はもう終わっていて、その一個は今日の分の最後だった。右手で持って、わざわざ左手に持ち替えて、少し時間をかけて置いた。それだけだ。

何をしているのかは、わからなかった。

声はかけなかった。かけてはいけない気がした。理由は説明できない。ただ、あれは自分に見せているものではないということだけは、はっきりわかった。

その晩、ハルは手帳に、一文だけ書いた。

――最後の一個を、左手で置く者がいる。

名前は書かなかった。

書きながら、自分でも少し驚いた。四十年、手帳には必ず誰が何をしたかを書いてきた。それが監督の書き方だ。名前を落としたのは、あの一文だけだった。

書けば記録になる。記録になれば、いつか誰かが読むかもしれない。読まれたら、あれはたぶん、あの男のものでなくなる。

第五章 残るほうと、残らないほう

あれから三十年、ハルはその一文のことをときどき思い出す。

自分と、あの男は、まるで違う場所に立っている。名前が石に彫られる側と、彫られない側だ。それは事実で、ハルはそれを平らにする言葉を持っていない。持っているふりもしない。

ただ、あの晩に見たものは、ハルが四十年書いてきたものと、たぶん同じ種類だった。

どちらも記録に残らない。どちらも誰にも見せない。どちらも、やめようと思えばいつでもやめられて、やめても誰も困らない。

石には名前が残る。手帳の中身は残らない。あの男には名前も残らないが、置いたということが本人の中に残る。

あの男とは、そのあとも同じ現場で何度も会った。挨拶はした。仕事の話もした。あの晩のことは、一度も出さなかった。向こうも出さなかった。

何年か経って、ハルは別の会社に移った。それきり会っていない。あの男がまだ積んでいるのかどうかも知らない。

どれがいちばん残るのかを、ハルは考えたことがある。考えて、意味のない問いだと思ってやめた。

――残る量の話ではないのだろう。

今晩も、ハルは机に座る。左手で紙を押さえる。今日決めたことを、短く書く。

エピローグ

夜の事務所。窓の外はもう暗い。

ハルは手帳を閉じて、引き出しに入れる。四十年ぶんが、そこに積んである。

明かりを消して、鍵をかける。

――名前が残っても、中身は残らない。

あなたが毎日決めていることを、誰か知っていますか。

ソウルミッション358

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