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最後の一個は、左手で

一九五〇年代のアメリカ。四十年、煉瓦を積んできた。壁はいまも残っているが、誰が積んだのかは図面にも台帳にもどこにも書かれていない。一日の最後の一個だけ、右利きなのに左手で置く。跡は残らない。置いたということしか残らない。見つけてほしいわけではなく、見つかったら意味がなくなるとも思っている。

最後の一個は、左手で

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第一章 一日の終わり

その日の最後の一個を、アーロン・ウィルクスは左手で置く。

六十四になった。十九から積んでいるので、四十五年になる。右利きだ。鏝も、定規も、右手で持つ。左手は煉瓦を送るだけの手で、置くのはいつも右手だった。

最後の一個だけが違う。

いつからそうしているのかは、自分でも思い出せない。二十代の終わりごろだったと思う。誰かに言われたのでもなく、意味を考えたのでもない。ある日そうして、次の日もそうして、それが四十年続いた。

左手で置くと、少しだけ手間がかかる。目地の厚みを合わせるのに、右手より半呼吸ぶん長い。その半呼吸のあいだ、アーロンは自分がいま何をしているのかを、はっきりと知っている。

煉瓦は一個で四ポンドある。四十五年持っていると、その重さが手の中に入ってしまう。目をつぶっても、重いのと軽いのがわかる。焼きの甘いものは軽くて、そういうのは端に回さない。

置いてしまえば、他の煉瓦と何も変わらない。

次の日に上の段が乗る。乗ってしまえば、下の段は誰の目にも触れない。壁ができてしまえば、外から見えるのは面だけだ。

朝、現場に来ると、昨日の最後の一個がどこだったかは、もうわからない。目地はひと晩で乾いて、前の日の仕事と今日の仕事の境目が消える。それでもアーロンは、だいたいこのあたりだ、という見当だけはついている。

跡は残らない。置いたということしか、残らない。

第二章 名前の要らない仕事

アーロンが積んだ建物は、この町に十九ある。

学校が二つ、教会が一つ、あとは倉庫と工場と、通りに面した建物がいくつか。どれもまだ建っている。煉瓦の壁というのは、手入れをしなくても百年はもつ。

どの建物にも、アーロンの名前はない。

設計した人間の名前は、正面の石に彫ってある。金を出した人間の名前も、たいてい並んでいる。積んだ人間の名前が彫られることは、ない。図面にも書かれない。会社の台帳には人数と日数が入るだけで、誰がどの面を積んだかは残らない。

それが不当だと、アーロンは思ったことがない。

思ったことがない、というのは正確ではないかもしれない。若いころに一度だけ、そういう話を仲間としたことがある。すぐにやめた。話しても壁が変わるわけではないし、話したことで積み方が変わったら、そのほうが困る。

アーロンの父も煉瓦を積んだ。父が積んだ壁も、この町にいくつか残っている。父がどこを積んだのかは、アーロンも知らない。聞いておけばよかったとは思わない。聞いたところで、父の名前がどこかに書かれるわけではない。

積み方は、変わってはいけない。四十五年、同じ厚みで積んできた。それが仕事だ。

ただ、最後の一個だけを、左手で置く。

第三章 ルーシーの数

妻のルーシーは、毎晩、その日にアーロンが持ち帰った金額を紙に書く。

週給の袋が来る日は袋の額を、そうでない日はゼロと書く。四十年つけている。

昔は要りようがあった。子どもが三人いて、月末に足りるかどうかを毎晩数えないと眠れなかった時期がある。いまはもう足りている。それでも書く。

アーロンが一度、もう書かなくていいんじゃないかと言ったら、ルーシーは、書かないと明日が始まらない、と言った。

夜、アーロンが台所の椅子で靴を脱いでいるあいだ、ルーシーは同じ台所で数字を書いている。二人とも四十年、同じ部屋で別々のことをしている。ルーシーは入ってきたものを数え、アーロンは残らないものを置いてきている。

ルーシーの紙は、封筒に入れて戸棚にしまってある。四十年ぶんある。アーロンは一度だけ古いのを見たことがあるが、数字と日付が並んでいるだけで、その日に何を積んだとも、誰と働いたとも書いていなかった。

アーロンは、左手のことをルーシーに言っていない。

言わないと決めたわけではない。言う機会がなかっただけだ、と思っている。ただ、四十年言う機会がなかったというのは、たぶんそういうことなのだろうとも思う。

第四章 見られた日

一度だけ、見られたことがある。

三十年ほど前、現場監督のハルという男が、日が落ちてから戻ってきた。忘れ物を取りに来たらしい。アーロンがちょうど最後の一個を置いたところだった。

ハルは足を止めて、しばらく見ていた。何も言わなかった。

アーロンも何も言わなかった。道具をしまって、帰った。

次の日も、その次の日も、ハルはその話をしなかった。何年か経って、ハルは別の会社に移った。それきりだ。

あのとき何を思ったのかは、聞かなかった。聞かなくてよかったと、いまは思っている。

もし、いい習慣だな、とでも言われていたら、たぶんやめていた。褒められた瞬間に、それは人に見せるものになる。人に見せるものになったら、置いても意味がない。

見つけてほしいのではない。見つかったら、なくなってしまう。

ただ、ハルが何も言わずに帰ったことは、アーロンの中に、長く残った。あの男は何かを見たが、何も言わなかった。言わないという扱い方があることを、アーロンはそのとき知った。

第五章 先にいなくなる

今年に入って、腰が持たなくなってきた。

朝の三時間はいい。午後になると、目地の厚みが自分でもあやしくなる。あと一年か、二年だろうと思っている。

やめたあとのことを、アーロンは何度か考えた。

やめる日に、最後の一個をどうするかも考えた。何か特別なことをしようかと思って、やめた。四十年やってきたのと同じに置いて、道具をしまって帰る。それがいちばんいい。

壁は残る。学校も教会も倉庫も、たぶん自分が死んだあとも建っている。孫の代でも建っているかもしれない。その中に、左手で置いた一個が何千個か入っている。何千個あっても、外からは一つも見えない。

息子のマーカスは、この仕事を継がなかった。北の街で別の仕事をしている。それでいいと思っている。継がせたいと思ったことは一度もない。

左手のことは、マーカスにも言っていない。言えば、あの子は覚えておこうとするだろう。覚えておこうとされると、それはもう自分のものではなくなる。

誰も知らないまま、そこにある。

それでいい、とアーロンは思う。

あかしというのは、誰かに見せるものだと思われている。けれど自分の場合はそうではない。あの半呼吸のあいだに、自分はここにいて、これを置いた。それが自分の中で起きて、自分の中で終わる。壁はそれを預かってくれるが、覚えてはいない。

――預かってくれるだけで、十分だ。

エピローグ

日が傾く。今日の分の壁が、腰の高さまで来ている。

アーロンは煉瓦を一つ取って、左手に持ち替える。目地を見る。半呼吸、置く。

立ち上がって、道具をしまう。壁はもう、何も言わない。

――置いたということしか、残らない。

あなたが誰にも言わずに置いているものは、何ですか。

ソウルミッション358

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