歯を磨くと、来る
三十年前に取り返しのつかないことをした。当時は死ぬほどつらかった。いまは毎朝、歯を磨いていると、なぜかそれを思い出して笑ってしまう。なぜ歯磨きなのかはわからない。人がいるときは咳でごまかす。三十年で、ごまかすのがうまくなった。誰にも話していない。話すと笑い話になってしまうから。可笑しさの中身は、最後まで書かない。

朗読で聴く
第一章 毎朝、来る
森田省吾は、朝、歯を磨いているときに笑う。
五十九になった。洗面所の鏡の前に立って、下の奥歯のあたりを磨いていると、決まってそれが来る。三十年前のことだ。
来ると、鼻から息が抜ける。声は出ない。口には歯ブラシが入っているので、笑おうにも形にならない。その、形にならないまま鼻から抜ける息が、省吾にとっての笑いだ。
なぜ歯を磨いているときなのかは、わからない。
考えたことはある。朝で、一人で、手だけが動いていて、頭が空いているからだろうと思ったこともある。けれど顔を洗っているときには来ない。風呂でも来ない。歯磨きのときだけだ。三十年、そこだけが決まっている。
歯ブラシは、下の奥歯から始めると決まっている。上からでも右からでもなく、下の奥歯だ。決めた覚えはないが、三十年その順番で磨いている。順番を変えたらどうなるのかは、試したことがない。試して来なくなったら困る、という気持ちがどこかにある。
うしろを妻が通ることがある。そういうときは、咳をする。
咳でごまかすのは、最初のころは下手だった。急に咳をするので、どうしたのと聞かれた。いまはうまい。息が抜けかけたところで喉を少し詰めて、そのまま、咳の形に変える。三十年やっていれば、たいていのことはうまくなる。
鏡の中の自分の顔も、三十年見ている。笑いをこらえている顔がどういう顔なのかを、省吾はよく知っている。眉が動かず、目の下だけが少し盛り上がる。他人が見ても、たぶんわからない。
うまくなったことを、省吾は誰にも言えない。言えるようなことではないからだ。
第二章 言えないのは、可笑しくないから
三十年前、省吾は取り返しのつかないことをした。
仕事のうえのことで、省吾一人の落ち度だった。数字の話でも、体裁の話でもなく、人が関わっていた。取り返しはつかなかったし、いまもついていない。
当時、省吾は二十九だった。会社を辞めるつもりでいたし、辞めるべきだとも思っていた。眠れない時期があって、そのころのことは順番があいまいになっている。覚えているのは、電話の受話器の重さと、廊下の蛍光灯が一本だけ切れかけていたことだ。
その出来事そのものは、少しも可笑しくない。いま思い出しても、可笑しくない。
可笑しいのは、そのときの自分の、ある一瞬の動きだ。
省吾はそれを、誰かに説明しようとしたことが一度だけある。多恵にでも、友人にでもなく、頭の中でだ。どう言えば伝わるかを、電車の中で二駅ぶん考えた。そして無理だとわかった。
言葉にすると、必ず「それだけ?」になる。実際、それだけなのだ。それだけのことが、省吾の中でだけ、三十年ずっと可笑しい。
ほかの人に可笑しくないものが、自分にだけ可笑しい。これは、うまく説明できない。説明できないものを人に言うと、言われたほうは困る。だから言わない。
第三章 十五年
最初の十年は、笑えなかった。
思い出すたびに手が止まった。歯を磨いている途中で止まって、しばらく鏡を見ていた。夜中に起きることもあった。
十年をすぎたころから、止まらなくなった。思い出しても、手が動いたままになった。それは楽になったのとは違う。省吾の感じでは、思い出すことのほうが日課になっただけだ。
十年から十五年のあいだのことを、省吾はあまり覚えていない。悪くなったわけでも、よくなったわけでもない。ただ、毎朝そこに来るものがあって、それを見て、また一日が始まった。
最初に鼻から息が抜けたのは、十五年目の春だった。
そのとき省吾は、自分でも何が起きたのかわからなかった。歯ブラシを持ったまま止まって、鏡の中の自分を見た。笑っている顔ではなかった。困っている顔だった。
省吾はそのあと、しばらく笑わないようにした。笑っていいことではない、と思ったからだ。けれど翌朝もまた来た。次の朝も来た。
止められないと気づいたころ、省吾は考えるのをやめた。
いま思えば、あれは何かが済んだ合図ではなかった。済んでいないものが、形を変えて出てきただけだ。
第四章 同じ洗面所
多恵は毎朝、省吾のうしろで、体重を量る。
量って、洗面台の引き出しに入れてある小さな手帳に書く。百グラム単位で、三十年つけている。増えたとか減ったとか、そういうことは言わない。ただ書く。
一度、何のためかと聞いたことがある。多恵は、別に、と言った。それから、書かないと一日が始まらないから、と言った。
省吾はそれ以上聞かなかった。聞いても、たぶん多恵にも説明できない。
多恵の手帳は、一年で一冊になる。使い終わったものは捨てずに、洗面台の下の箱に入れてある。省吾は一度だけ中を見たことがあるが、数字が縦に並んでいるだけで、何も書かれていなかった。三十年ぶんの数字が、あの箱に入っている。
朝の洗面所で、二人はいつも同じ場所にいる。省吾は鏡を見て笑いをこらえ、多恵はその後ろで数字を書く。二人ともそれを三十年やっていて、どちらも相手のやっていることの中身を知らない。
多恵は省吾が咳をするのを、三十年聞いている。喉が弱い人だと思っているだろう。
結婚してから三十四年になる。多恵にも、省吾の知らないことがいくつもあるはずだ。三十年のあいだ、聞かなかったことのほうが、聞いたことよりずっと多い。
それでいい、と省吾は思う。
第五章 笑い話にしない
話せば、楽にはなるだろう。
誰かに、実はこういうことがあってね、と話す。相手は聞く。うまく話せば、たぶん笑ってくれる。
そうなった瞬間に、それは笑い話になる。
笑い話は、聞いた人のものになる。相手の中で短くなって、要点だけになって、別の場所で誰かに話される。それは省吾のものではなくなる。
省吾が惜しいのは、可笑しさではない。可笑しさなら渡してもいい。
惜しいのは、笑えるようになるまでの十五年のほうだ。あれは誰にも渡せないし、話に入れることもできない。話に入れられないものを省いて話すと、残るのは「それだけ?」の部分だけになる。
もう一つある。話してしまうと、次の朝から来なくなるかもしれない。根拠はない。ただ、これは自分の中だけにあるから毎朝来るのだ、という気がしている。
当時の上司に、堀内という人がいた。
あのあと、省吾は辞めるつもりでいた。辞表を出しに行った日、堀内は書類を受け取らずに、ひとことだけ言った。
――森田、来週も来いよ。
理由も、慰めも、叱責もなかった。省吾は来週も行き、その次の週も行って、そのまま、定年まで行った。堀内は五年前に死んだ。あの一言が何だったのかは、聞かないままになった。
いまでは省吾は、あれでよかったのだと思っている。理由を聞いていたら、たぶん今朝は笑えていない。
エピローグ
朝の洗面所。鏡の中に、五十九の顔がある。
下の奥歯のあたりを磨く。来る。鼻から息が抜ける。
うしろで多恵が体重計に乗る音がする。省吾は咳をする。
――痛かったことが、笑えることもある。
あなたが一人で笑ってしまうのは、何ですか。
あなたの魂のテーマに気づく場所