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十五分で、やめる

赦し

十五分で、やめる

朗読で聴く

第一章 十五分

西野富士子は、寝る前に必ず、茶の間の座布団に座る。

七十四になった。八時にはもう寝支度が済んでいて、それから電気を一つだけ残して、部屋の隅に座る。柱時計の振り子の音がする。

座ってから、そのことを考える。

十五分で、やめる。

三十年やっているので、いまでは十五分の長さが体に入っている。時計を見なくても、そろそろだ、というのがわかる。それでもかならず時計を見る。体でわかることを、体だけに任せてはいけないと思っている。

座る場所は、三十年ずっと同じところだ。畳の目がそこだけ寝てしまって、まわりより少し白っぽくなっている。畳を替えたのは十年前で、替えたあとの畳にも、もう同じ形の跡がついている。

考えているあいだ、富士子は何もしない。泣かないし、手も合わせない。ただ、三十年前の二年間のことを、順番に思い出す。

十五分たったら、立って、電気を消して、布団に入る。

思い出しかけていても、途中でやめる。きりのいいところまで、とは考えない。きりのいいところまで行かせると、次の晩はもっと先まで行きたくなるからだ。

減らしもしないし、増やしもしない。

富士子はこれを、償いだと思ったことはない。償いなら、いつか終わりが来ることになる。これは終わりが来ないので、償いではなく、ただの決まりごとだ。

第二章 二年間

夫の克次が家を出たのは、富士子が二十八のときだった。

朝、いつもどおり出ていって、帰ってこなかった。事故でも病気でもなかったことは、あとでわかった。息子の敦は四つだった。

富士子は昼に工場で働き、夜は駅前の店に出た。眠るのは四時間くらいだった。それが二年続いた。

あのころのことで、富士子がいちばんよく覚えているのは、匂いだ。夜の店から帰ると、髪にも服にも店の匂いがついていて、それを敦に嗅がせたくなくて、玄関で一度、上着を脱いでから入った。眠っている敦の顔は見ないようにしていた。見ると、次の日に起きられなくなる気がした。

その二年のあいだ、富士子は敦に手を上げた。

何度あったのかは、覚えていない。数えていなかったからだ。数えたら耐えられないから数えなかったのではなくて、あのころは数えるという考えそのものがなかった。それがいちばん、いまの富士子にはこたえる。

二年めの冬に、克次の親から毎月いくらか送られてくるようになった。富士子は夜の仕事をやめた。眠れるようになった。

それで、止まった。

自分でやめたのではない。条件が変わったから止まっただけだ。もし仕送りが来なかったら、あと何年続いたのかは、誰にもわからない。富士子にもわからない。

富士子が自分を赦せないのは、手を上げたことよりも、そこのところだ。

第三章 覚えていない

敦は普通に育った。高校を出て働いて、四十をすぎてから結婚した。母親を邪険にすることもなく、月に一度は電話をくれる。

敦が四十のとき、富士子は一度だけ、切り出したことがある。

あのころ、ごめんね、と言った。

敦は少し黙ってから、え、何が、と聞いた。富士子が言葉を探しているうちに、敦のほうが先に言った。

覚えてないよ、そんなの。

それから、そういえば会社でこんなことがあってさ、と話を変えた。声はやわらかかった。気を遣ったのかもしれないし、本当に覚えていないのかもしれない。富士子には確かめようがない。

電話を切ったあと、富士子は台所に立ったまま、しばらく動かなかった。

赦された、と思った。実際、赦されたのだと思う。

その晩、富士子は少しだけ迷った。もう座らなくていいのではないか、と思ったのだ。本人が覚えていないと言い、赦しているのなら、続ける理由がどこにあるのか。

その晩も、富士子は八時に座布団に座って、十五分考えて、やめた。

赦されても、終わらなかった。

赦す人と赦される人が別々にいるなら、片方が済ませればそれで終わる。けれど自分を赦す場合、その二人は同じ体の中にいる。片方が赦しても、もう片方はそこで一緒に聞いている。手続きは、いつまでも完了しない。

第四章 一回だけ、ちゃんと

十五分と決めたのは、富士子が自分で決めた。

きっかけは、隣に住んでいた老女の一言だった。

二年めの終わりごろだ。老女は富士子の家の事情を、たぶん壁ごしに全部知っていた。ある日、ゴミを出しに出たところで、老女は前を向いたまま言った。

――寝る前に一回だけ、ちゃんと思い出しなさい。あとは考えなさんな。

それだけだった。老女は理由を言わなかったし、富士子も聞かなかった。老女はその翌々年に施設に入って、それきり会っていない。

あとになって富士子は、あの人はなぜあんなことを言えたのだろう、と何度か考えた。ああいう言い方は、聞いただけの人にはできない。けれど確かめる機会はもうない。

言われたとおりにやってみて、富士子は困った。一回だけ、と言われても、どこで切ればいいのかがわからない。切らずにいると朝までかかって、翌日の仕事に出られなかった。

ある晩、富士子は台所の味噌汁が冷めるまでの時間を測った。十五分だった。

それで十五分にした。

根拠は、何もない。味噌汁が冷める時間だというだけだ。

けれど根拠がなかったから、三十年続いたのだと富士子は思っている。根拠があったら、その根拠のほうが先に崩れる。

第五章 渡した

去年、敦に子どもが生まれた。女の子で、ひなという。

半年ほどたったころ、敦から電話がかかってきた。夜泣きの話をしていた。三時間おきに起きるとか、抱いても泣きやまないとか、そういう話だ。

それから敦は、少し声を落として言った。

この前さ、ちょっと、手が出てしまいそうになった。

富士子は、受話器を持ったまま、息を止めた。

わたしもそうだった、と言いかけた。喉のところまで来ていた。

言わなかった。

言えば、敦は楽になるだろう。けれど楽になるのは、そのあと、自分のほうだ。自分の三十年をここで使って息子を軽くしようとするのは、順番が違う。それに、母もそうだったと知ってしまったら、敦は自分のことを考える代わりに、母のことを考えはじめる。

だから富士子は、こう言った。

寝る前に、十五分だけ考えなさい。時計を見て、十五分でやめなさい。

何それ、と敦は笑った。十五分って、何。

富士子は、いいから、とだけ言った。理由は言わなかった。

電話を切ってから、富士子は、三十年前の老女と同じことをした自分に気がついた。

あの人も、何か理由があったのかもしれない。聞かなかったのでわからない。わからないまま、方法だけが、こちらに渡っていた。

敦の妻は、毎日、育児のアプリに授乳の記録をつけているという。何時に何分飲んだか、全部残っている。あの子は毎日、十五分を数えている。同じ十五分を、富士子も毎晩数えている。同じ家の話をしていて、測っているものはまったく別だ。

エピローグ

夜の八時。柱時計が鳴る。

富士子は座布団に座って、時計を見る。

三十年前の二年間を、順番に思い出す。今夜も、途中でやめる。

立ち上がって、電気を消す。畳を横切っていた細い光が、消える。

――自分を赦すのは、量を決めることだった。

あなたが自分に許している時間は、一日何分ですか。

ソウルミッション358

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