空っぽにしない
親が渡ってきて、自分はこの国で生まれた。父が来た年、金がなくて車が動かせず、仕事に行けなかった日がある。父はそれ以来ずっと、帰る前に必ず満タンにしていた。理由は父から聞いている。父はもういない。金に困ってもいない。それでも三十年、毎晩満タンにしてから帰っている人生。

朗読で聴く
第一章 遠回り
アニル・デサイは、帰る前に必ず給油する。
三十年、一度も欠かしていない。
面倒がないわけではない。彼が使うスタンドは家とは反対の方角にあり、往復で十五分かかる。近くにも店はあるが、そちらは夜十時で閉まる。彼の仕事は空調設備の保守で、遅い日は十一時を回る。だから遠いほうまで行く。
三十年やって、遠回りが体に入った。
いまでは考えていない。仕事が終わって車に乗ると、体が勝手に右へ行く。家は左だ。一度、同僚を送った帰りに、そのまま家に着いてしまったことがある。深夜二時だった。彼は車を出して、給油して、また戻った。
同僚に話したら笑われた。「そこまでする?」と言われた。
アニルは「癖だから」と答えた。
嘘ではない。ただ、癖の由来を言わなかった。
彼はこの国で生まれた。この国の学校を出て、この国で働いている。話す言葉もこの国のものだ。
父が渡ってきたのは、その前の話だ。
父は技師だった。あちらで学校を出て、こちらの会社に採用されて来た。逃げてきたのでも、追われてきたのでもない。手紙で仕事が決まって、飛行機に乗った。
アニルが子どものころ、学校で「どこから来たの」と聞かれることがあった。彼は「ここで生まれた」と答えた。相手はたいてい「そうじゃなくて」と言った。
その先の会話が、彼はいまでもうまくできない。
正直に言えば、どう答えるのが正解なのかを、五十四になったいまも知らない。父の生まれた場所を答えると、行ったこともない土地の代表にされる。ここで生まれたと答えると、はぐらかしたことになる。
どちらも少しずつ違う。
だから彼は、その質問が来ないように振る舞う癖がついた。これも三十年やっている。
第二章 針が上まで来る
給油して、メーターの針が上まで来ると、アニルは体の力が抜ける。
これは比喩ではない。実際に肩が落ちる。息が長くなる。三十年、毎晩それが来る。
だからやめられないのだと思う。あの一瞬のために往復十五分を払っている、という言い方もできる。
彼はいま五十四になる。妻のプリヤと、大学生の息子が一人。家のローンは終わっている。仕事は安定していて、貯金もある。
金に困ったことは、大人になってから一度もない。
車も、いまのはよく走る。十年落ちだが手入れはしてある。彼の仕事柄、機械のことはわかる。ガソリンを満タンにしておく実用上の理由は、はっきり言って、ほとんどない。
冬の朝に結露が減る、という話はある。ただ、それが理由なら半分でも足りる。
彼が確かめているのは、そこではない。
明日も動く。それだけだ。
第三章 妻が数えているもの
妻のプリヤは、家にある食べ物の日数を数えている。
「これで八日ぶんある」と言う。冷凍庫と乾物の棚を見て、何日食いつなげるかを常に把握している。買い物のあとに必ず計算する。
アニルはそれを笑わない。彼女には彼女の理由がある。彼女の母は、あちらで一度、本当に食べ物がなくなったことがあるらしい。
プリヤの数字は、日数だ。
アニルは、何も数えていない。
給油した回数も、使った金額も、走った距離も、記録していない。
彼が確かめているのは、針が上にあるという状態だけで、それは数字にならない。毎晩同じところに戻るだけだからだ。
同じ家に三十年住む二人が、まったく別のものを数えていた。
プリヤの八日は、彼女を安心させる。アニルの針は、毎晩ゼロに戻る。
一度、プリヤに言われたことがある。
「あなたのお父さんも、そうだったのよね」
アニルは「うん」と答えた。
それ以上は続かなかった。彼女は父を知らない。結婚したときには、もう亡くなっていた。
第四章 聞いた日
父から聞いたのは、一度だけだ。
アニルが二十四のときだった。就職して、初めて自分の車を買った。父を助手席に乗せて、少し走った。
帰り道、父が「ガソリンは切らすな」と言った。
アニルは「わかってる」と答えた。
そのあと、父が話した。
来て二年目の冬に、金がなくなった。給料日まで四日あって、手元にほとんど残っていなかった。食べるぶんは何とかなったが、車のガソリンが底をついた。
その週、父は三日仕事に行けなかった。
歩ける距離ではなかった。バスもその方向には走っていなかった。誰にも頼まなかった。頼める相手を、まだ作れていなかった。
四日目に給料が出て、それで入れて、また通いはじめた。
「クビにはならなかった」と父は言った。「運がよかった」
話はそれで終わりだった。父は感情を込めずに話した。可哀想がられたくなかったのだと思う。
アニルは「そうか」とだけ言った。
そのあと、父は死ぬまで一度もこの話をしなかった。
第五章 自分のものではない
アニルは、その三日を知らない。
生まれていない。見ていない。父が困っている姿を見たこともない。彼が物心ついたころには、父はもう普通に働いていて、家には車が二台あった。
つまり彼が三十年やってきたことは、自分のものではない記憶に由来している。
このことに気づいたのは、四十を過ぎてからだ。
気づいたとき、彼は少し混乱した。
自分の体が反応している。針が上まで来ると本当に肩が落ちる。それは間違いなく彼の体の反応だ。でもその源にあるのは、父が二十代で経験した四日間で、彼はそこにいなかった。
彼は一度、やめてみようとした。
四十三の年だ。ある晩、まっすぐ帰った。針は半分より少し上にあった。実用上は何の問題もない。
その夜、彼は眠れなかった。
二時に起きて、車で出て、給油して、帰ってきた。
プリヤは気づいていた。翌朝「行ったでしょ」と言われた。アニルは「うん」と答えた。彼女は何も聞かなかった。
それきり試していない。
もう一つ、彼が気づいたことがある。
父は、あの三日間のことを「運がよかった」で終わらせた。
アニルは長いあいだ、それを謙遜だと思っていた。四十を過ぎてから、違うと思うようになった。
父はたぶん、本当に運だと思っていた。自分の落ち度でもなく、誰かの悪意でもなく、ただそういう四日があった。だから恨む相手も、悔いる相手もいない。
そういうものの置き場所は、どこにもない。
置き場所のないものを、父は毎晩の給油に変えた。感情のかたちのままでは持ち歩けないから、行為のかたちに変えて持った。
そして息子に一度だけ話した。
話した瞬間に、それはアニルの中で同じかたちを取った。彼の中にも、置き場所のないものが一つできた。彼はそれを、父と同じやり方で持つことにした。
家族というのは、そういうものの受け渡しでできているのかもしれない。
エピローグ
息子のヴィクは、来年就職する。
先月、車を買う相談をされた。アニルは中古で程度のいいものを一緒に見に行って、値段の交渉までしてやった。
帰り道、アニルは言おうとした。
ガソリンは切らすな、と。
言わなかった。
言えば、息子は理由を聞くだろう。話せば、息子はたぶん一生それをやる。父が話して、自分が三十年やっているように。
アニルは、それを渡していいものかどうか判断がつかなかった。
安心のかたちを一つ渡すことになる。同時に、恐れのかたちも一つ渡すことになる。その二つは同じものだから、分けて渡すことができない。
だから何も言わずに、代わりに「保険はちゃんと入れよ」と言った。
息子は「わかってる」と言った。
その晩も、アニルは遠回りをして帰った。
針が上まで来て、肩が落ちた。四日間を知らないまま、三十年、毎晩それをやっている。
――安心は、覚えていない出来事からでも受け継がれる。あなたは毎日、何を切らさないようにしていますか。
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