並んで座る
「なぜこの子が」と親に問われ続ける。答えは無く、あってはならない。説明も慰めもせず、ただ同じ側を向いて隣に座り続けることだけを、二十年やってきた人生。

朗読で聴く
第一章 なぜこの子が
高梨修一は、二十年、同じ問いを受け取ってきた。
小児科の医師で、専門は先天性の疾患を扱う分野になる。生まれつきの、原因のわからない、そして多くは治らないものを診ている。
診断の説明が終わったあと、部屋には長い沈黙が来る。
その沈黙のあとに、親が言う。
なぜこの子が。
言い方はさまざまだ。はっきり口に出す人もいるし、独り言のように漏らす人もいる。何も言わずに、ただ顔を上げて修一を見る人もいる。目が同じことを聞いていることが、修一にはわかる。
二十年で、何百回になるだろうか。数えたことはない。数えられるようなものではない。
そして、そのすべてに対して、修一は答えを持っていない。
医師になって最初の数年、修一はこの問いを「感情の表出」として処理していた。
教科書にもそう書いてあった。受容の過程で現れる反応の一つで、事実を問うているのではない。だから答える必要はない、と。
いまはそう思っていない。あれは本当に問いだ。答えがないというだけで、問いであることに変わりはない。答えのない問いを、人は一生かけて抱えることができる。それを「感情の表出」と呼んで片づけるのは、こちらが楽になるためだった。
第二章 口を閉じる
医学的な説明ならできる。
遺伝子のどこで何が起きたか。発生のどの段階で何が生じたか。それは説明する。求められれば図も描く。数字も出す。
けれど、親が聞いているのはそれではない。
なぜこの子が、というのは、確率の話ではない。なぜ他の子ではなく、この子だったのか。なぜ自分の家に来たのか。そこに理由があるのか。ないのか。
そこには答えがない。
医学にはない。宗教にも、修一が渡せる形ではない。そして何より、修一が答えを出してはいけない。
「意味があるんですよ」と言った瞬間、それは修一の意味になる。親が自分で見つけるはずだったものを、こちらが先回りして塞ぐことになる。
若いころ、それをやりかけたことがある。
三十代のはじめ、あまりに苦しそうな母親を前にして、何か言わなければと思った。口が開きかけた。そのとき、隣にいた先輩の医師が、机の上の紙を一枚、静かに引き寄せた。
それだけだった。何も言われなかった。修一は口を閉じた。
以来、修一は口を閉じる体になった。言葉が出そうになると、先に喉が止まる。二十年かけて、そういうふうに作り替えられた。
家でもそうなった、と妻に言われたことがある。
何を聞いても、少し間が空いてから返事が来る、と。悪い意味ではなく、そういう人だと思っている、と妻は言った。修一は謝った。妻は「謝ることじゃない」と言った。
職業が体を変える。それは修一の場合、手や目ではなく、喉に来た。
第三章 看護師長が数えているもの
外来には、佐々木という看護師長がいる。
修一より少し年上で、この病棟が長い。診断の説明のとき、たいてい同席してくれる。
佐々木さんは、涙の回数を数えていない。代わりに、渡したティッシュの箱の数を数えている。
冗談のようだが、本当だ。備品の発注をしているからで、月に何箱出たかを把握している。「今月は多かったですね」と言うときがある。それは、そういう月だったという意味だ。
修一は、立たなかった回数を数えている。
数えているというより、覚えている。何も言えないまま、それでも席を立たずに最後まで座っていた回数。二十年ぶん、体のどこかに積んである。
同じ部屋にいて、同じ時間を過ごしている二人が、まったく別のものを数えていた。
佐々木さんの数字は発注書に載る。修一の数えているものは、どこにも載らない。カルテにも、業績にも、何にも残らない。
一度、佐々木さんに言われたことがある。
「先生、しゃべらないですよね」
責める口調ではなかった。むしろ、感心しているような言い方だった。修一は「何も言えないだけです」と答えた。佐々木さんは「そうですか」と言って、それ以上は聞かなかった。
第四章 できることが、それだけしかない
修一がやっていることは、突き詰めると一つしかない。
同じ側を向いて、隣に座る。
正面に座らない。正面から向き合うと、こちらが「答える側」になる。だから、椅子を並べて、同じ窓のほうを見る形にする。二十年かけて身についた、ほとんど唯一の技術らしい技術だ。
それ以外には何もしていない。
説明はする。治療はする。それは医師としての仕事で、当然やる。だが、なぜこの子が、という問いに対しては、何一つできていない。
役に立っている、と思えた日は、一日もない。
これは謙遜ではなく、正確な記述だと修一は思っている。あの問いに対して、自分は無力だ。二十年やって、無力さの度合いは一ミリも減っていない。
若いころは、それが耐えられなかった。
医師になったのは、治すためだった。治せないものを前にして何もせずに座っているというのは、当時の修一にとって、職務の放棄に近かった。
いまは、そうは思わない。ただ、代わりに何が起きているのかも、うまく説明できない。
四十を過ぎたころ、一度だけ、退職を考えた。
きっかけは、ある父親に言われた一言だった。「先生は、他人事ですもんね」
その人に悪気があったとは思わない。追い詰められていた。誰かに言うしかなくて、そこにいたのが修一だった。
言われたことは、正しかった。修一の子ではない。修一は毎晩家に帰る。その差は埋まらないし、埋めようとするほうが傲慢だ。
辞めなかったのは、代わりが来ないからだった。誰かがあの椅子に座らなければならない。他人事の人間でいいから、座る人間が要る。
そう思ったとき、少し楽になった。他人事であることを引き受けるほうが、当事者のふりをするより誠実だった。
第五章 立たなかった
去年、ある家族と向き合った。
生まれて三か月の子だった。父親は終始無言で、母親が全部聞いた。説明が終わって、沈黙が来て、そのあと母親が言った。
「先生でも、わからないんですね」
修一は「わかりません」と答えた。
母親はうつむいて、それから長いこと動かなかった。二十分ほどだったと思う。誰も何も言わなかった。佐々木さんも黙っていた。父親も黙っていた。
修一は、立たなかった。
次の外来が押していた。廊下に人が待っているのもわかっていた。それでも立たなかった。座っていることしかできないなら、せめて最後まで座っていようと思った。
しばらくして、母親が顔を上げて、「すみません、長くなって」と言った。
修一は「いえ」と言った。それだけだった。
その日、修一は帰りの電車で、自分が何もできなかったことを確認した。何も言えず、何も渡せず、ただ二十分そこにいただけだ。
それでも、あの二十分に自分がいなかったら、あの部屋には誰もいなかった。
母親は最後まで泣かなかった。父親も一言も話さなかった。
一か月後の再診で、その母親が「この前は」と言いかけて、やめた。修一も聞かなかった。ただ、その日の説明のとき、母親は前より少し多く質問をした。
それが何かの結果なのかどうか、修一にはわからない。因果関係を確かめる方法がない。
わからないまま二十年、同じことを続けている。
エピローグ
修一は今年、五十四になる。
若い医師を指導する立場になった。研修医には、説明の仕方を教える。診断の伝え方、言葉の選び方、資料の出し方。技術として教えられることは、全部教える。
ただ一つだけ、教えられないことがある。
沈黙のあいだ、そこに居続ける方法だ。
あれは技術ではない。立ちたくなる。逃げたくなる。何か言って場を収めたくなる。その全部を我慢して、ただ座っている。理由は一人ひとりが自分で持つしかない。
修一の理由は、たぶんあの二十分にある。
外来の椅子は、いまも並べてある。正面ではなく、横に。同じ窓のほうを向いて。
――あなたは毎日、誰の隣にいますか。
あなたの魂のテーマに気づく場所