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わたしより古いわたし

泣いても誰も来ない夜を何度か経験して、「待つ」という技術を人生でいちばん最初に習得した。そのことを覚えていないまま、四十年、待つことだけが得意な人間として生きている人生。

わたしより古いわたし

朗読で聴く

第一章 四歳の夏

相沢和樹のいちばん古い記憶は、四歳の夏だ。

祖父母の家の縁側で、ホースの水を足にかけている。石が濡れて色が変わっていく。それだけの場面が、一枚の絵のように残っている。音はない。誰かがそこにいたはずだが、誰の顔も覚えていない。

その一枚より前は、なにもない。

四十四になった今も、そこが底だ。三歳の記憶はない。二歳もない。一歳の自分がどんな子だったのか、和樹は自分では一つも知らない。

何かの拍子に思い出すこともない。写真を見ても、そこに写っている赤ん坊が自分だという以外のことは何も浮かばない。母が「このときはこうだった」と説明してくれても、それは他人の話を聞いているのと変わらない。

人はそういうものだと思っていた。誰でも最初の数年は空白だと。

そのとおりなのだろう。ただ、空白というのは何もなかったということではないと、和樹は去年知った。

第二章 母が漏らしたこと

去年の秋、母が入院した。七十二だった。手術は無事に済んで、あとは日ごとに良くなっていく段階だった。

見舞いは和樹が行った。姉は遠方に住んでいて、来られる回数が少ない。病室で話すことは、そう多くない。天気の話をして、点滴の話をして、それから沈黙になる。

その沈黙のあとに、母がふと言った。

「あんた、赤ん坊のとき、ほとんど泣かん子でね」

和樹は「そうなんだ」と答えた。何度か聞いた話だと思った。母は続けた。

「泣かんかったんじゃなくて、泣いても行けん夜があってねえ」

和樹は母を見た。

母は天井のほうを見ていた。「お父さんが単身赴任でおらんかったし、お姉ちゃんが小児科に入っとった時期でね。夜中にあんたが泣いても、行けんことがあった。何回か」

母は謝るつもりで言ったのではない。和樹にはそれがわかった。ただ、思い出したから口に出した、という言い方だった。

「そしたら、途中から泣かんようになってねえ。楽な子やわ思うたけど、いま思うと、あれは」

そこで母は言葉を切って、「まあ、昔のことやわ」と言った。

和樹はその日、病院を出てから、しばらく駐車場の車の中にいた。

覚えていない。まったく覚えていない。それでも、聞いた瞬間に、身体のどこかが返事をした気がした。

第三章 妻が数えていたもの

和樹は校正の仕事をしている。

出版社から原稿が届いて、赤を入れて返す。フリーランスで十五年になる。向いている仕事だと思っている。一人で、静かで、そして何より、待つ時間が長い。

原稿が来るのを待つ。返事を待つ。次の依頼を待つ。この仕事は待てない人には向かない。和樹はそこがまったく苦にならない。三日返信がなくても、催促の電話を入れようとは思わない。向こうにも都合があるだろう、と本気で思える。

得意なのだ。待つのが。

妻の詩織は、まったく逆の人だった。

思ったことをすぐ言う。困ったらすぐ人に頼む。頼まれるのも好きで、友人が多い。和樹はその性質に惹かれて結婚したのだと思う。

三年前の正月、詩織が言った。

「あなた、今年、私に何か頼んだの、二回だけだよ」

和樹は笑って「そんなことないだろ」と言った。詩織は真顔で「数えてたの」と言った。

冗談ではなかった。彼女は結婚してから毎年、和樹が自分から何かを頼んだ回数を数えていたのだという。多い年でも五回。少ない年は一回。

同じ家に住んで、同じ生活をしている二人が、まったく別のものを数えていた。

和樹は待った回数を数えていない。数えるほどのことだと思っていないからだ。詩織は、和樹が頼まなかった回数を数えていた。

「べつに責めてないよ」と詩織は言った。「ただ、こわいの。あなたが我慢してるとき、私はぜんぜん気づけないから」

和樹はそのとき、うまく答えられなかった。

我慢しているつもりはなかった。頼まないのは、頼むほどのことがないからだと本気で思っていた。荷物が重いとき、人に持ってもらうという選択肢が、そもそも頭に浮かばない。浮かばないものを我慢と呼ぶのかどうか、和樹にはわからない。

ただ、詩織が数えていたという事実だけが、妙に胸に残った。自分が数えていないものを、誰かが数えていた。それは、見られていたということだ。

第四章 朝まで床にいた夜

去年の十二月、和樹は熱を出した。

三十九度を超えていた。詩織は仕事で二泊三日、他県にいた。和樹は薬を飲んで寝たが、夜中にひどくなった。

寒くて、起きられなくて、水を取りに行くのに十分かかった。

そのあいだ、和樹は一度も電話をしなかった。

詩織にも、近所に住む姉の家にも、救急にもかけなかった。頭が回らなかったのではない。むしろ妙に冷静で、自分が今どういう状態かも、電話をかけたほうがいいことも、全部わかっていた。

わかっていて、手が動かなかった。

朝になって、熱が少し下がった。詩織が帰ってきたのは翌日の夜で、和樹の顔を見て、すぐに全部わかったらしかった。

詩織は泣いて怒った。

「なんで電話しないの」

和樹は答えられなかった。ごめんとは言った。でも、なんで、には答えられなかった。答えがないのではない。あるのに、それを言葉にすると自分がおかしくなりそうだった。

助けて、と言う。

その機能が、自分にはついていない。壊れているのではなく、たぶん、最初から取り付けられなかった。

そのとき、母の声が戻ってきた。泣いても行けん夜があってねえ。そしたら、途中から泣かんようになってねえ。

四十四年前の何回かの夜に、自分は結論を出したのだ。呼んでも来ないなら、呼ばない。呼ばずに待つ。そのほうが痛くない。

一歳にもなっていない人間が出した結論を、いまも守り続けている。

第五章 よう待っとったねえ

母を責める気持ちは、どこを探しても出てこない。

父は単身赴任だった。姉は入院していた。母は二十代で、一人で三人を抱えていた。行けなかった夜があったのは当然だ。和樹が同じ立場でも行けなかったと思う。

誰も悪くない。

それが、いちばん不思議なところだ。誰も悪くないのに、何かが確かに自分の中に入って、四十四年も動いている。悪意もなく、事故でもなく、ただ静かに、いちばん最初に入った。

こういうものを、なんと呼べばいいのか和樹にはわからない。

こわいとは違う。恨みでもない。自分の記憶より古い自分がいて、その人が今も自分を動かしている、という感覚。畏れ、というのが近いのかもしれない。

年が明けて、和樹はもう一度母を見舞った。

そのとき、思いきって言った。赤ん坊のときのあの話を、もう一度してほしいと。

母は少し驚いた顔をして、それから、同じ話をした。前より少し詳しかった。夜中に泣き声が聞こえて、姉の熱を測っていて動けなかったこと。廊下で立ち止まったこと。

話し終わって、母はこう言った。

「あんた、よう待っとったねえ」

ごめんね、ではなかった。

和樹はそれで、なぜか楽になった。謝られたら、たぶん困っていた。母が悪いことにしなければならなくなる。そうではなくて、母は、和樹が待っていたことを見ていたと言った。

四十四年たって、あの夜の待ち時間に、はじめて立ち会う人が現れた。

帰りの車で、和樹は少し泣いた。悲しかったのではない。名前のなかったものに、やっと名前がついた感じがした。

自分は待っていた。ただ待っていた。それは我慢でも、いい子でいようとしたのでもなく、あの状況で赤ん坊にできる唯一のことだった。そして、それは誰にも見られていないはずだった。

見ていた人が、一人いた。行けなかった側の人が、廊下で立ち止まって、聞いていた。

エピローグ

いまも和樹は、待つのが得意だ。

たぶん死ぬまで変わらない。四十四年動いているものが、この先の何年かで止まるとは思えない。

ただ、去年から一つだけ始めたことがある。

一日に一回、詩織に何か言う。今日はしんどい。手伝ってほしい。今夜は作りたくない。内容は何でもいい。とにかく、自分から言う。

うまく言えない。いまだに、口を開くまでに数秒かかる。言ったあと、なぜか少し恥ずかしい。

詩織は、和樹が言うたびに「はい」と言うだけで、特に何もしない。それでいいのだと本人が言っていた。頼まれることが目的じゃなくて、あなたが言えたかどうかを見てるから、と。

数えているのだと思う。今年はもう、二十回を超えているはずだ。

――あなたは毎日、なにを待っていますか。

ソウルミッション358

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