一晩だけの読者
誰にも読まれないまま捨てられるはずの手紙を、処分の前の一晩だけ読む。読んだことは誰にも言えず、記録にも残らない。それでも、その人が生きていた証拠に、たった一人の読者として立ち会い続ける人生。

朗読で聴く
第一章 三年ぶんの郵便
七十二歳の男性だった。発見まで二か月かかっていた。
倉本志乃が現場に入ったのは、九月の午後だった。ドアを開けると、まず郵便が滑り落ちてきた。玄関の内側に、三年ぶんの郵便が積み上がっていた。ダイレクトメール、公共料金の通知、選挙の広報。封を切ったものは一通もなかった。
三年ぶん。つまりこの人は、亡くなる二年以上前から、届いたものを見ていない。
部屋の中は、思っていたより片づいていた。台所の鍋が一つ、洗ってそのまま伏せてある。テレビの前に座椅子。壁のカレンダーは、三年前の五月で止まっていた。
依頼主は遠方に住む甥だった。電話で「全部、処分してください」と言われた。貴重品と重要書類だけは送ってくださいと。それ以外は、写真も、手紙も、全部。
そういう依頼は珍しくない。むしろ、そちらのほうが多い。
志乃はこの仕事を七年やっている。その前は介護職だった。生きている人の身体に触れる仕事から、いなくなった人の部屋に入る仕事に移った。理由を聞かれると「たまたま」と答えることにしている。
第二章 匂い
この仕事を始めてから、匂いを覚える体になった。
現場の匂いには種類がある。季節、部屋の広さ、発見までの日数、それらの組み合わせで変わる。志乃はもう、ドアを開けた瞬間にだいたいの見当がつく。つけたくてついたわけではない。体が勝手に覚えていく。
作業の途中、志乃はよく外に出る。
階段の踊り場に座って、防塵マスクを外し、手袋を脱いで、そこに置く。外の空気を吸う。五分だけ。それから戻る。
帰宅して風呂に入っても、髪の奥に残っている気がする日がある。気のせいだと同僚は言う。数値では出ない、と。それでも志乃には匂う。
三年前に付き合っていた人と別れたのは、そのことが理由の一つだった。相手は何も言わなかった。言わないことのほうがこたえた。
不思議なもので、匂いには物語がついてくる。
台所の匂いが強く残っている部屋では、その人は最後まで自炊していたのだとわかる。薬の匂いが勝っている部屋では、長く床にいたのだとわかる。何の匂いもしない部屋というのもあって、それがいちばんこたえる。生活の痕跡が薄いということだからだ。
匂いは、志乃にとって最初の情報になる。読むより先に、鼻が読んでいる。
体は、正直に記録してしまう。頭が忘れたいと思っても、鼻が覚えている。この体からは降りられない。
第三章 戸田くんが数えているもの
その夜、志乃は車のなかにいた。
助手席に段ボールがひとつ置いてある。処分と決まった品のうち、手紙だけを入れた箱だった。会社の車の、コンビニの駐車場の隅。ダッシュボードの小さな灯りだけをつけて、志乃は封筒を開ける。
読む。
一通ずつ、最後まで読む。何時間かかっても読む。朝になれば、この箱は処分場へ行く。読んだことは誰にも言わないし、記録にも残らない。
なぜ始めたのか、はっきり覚えている。七年前、最初の現場だった。同じように「全部処分」と言われた箱の中に、束になった封筒があった。積み込むとき、一通が落ちた。拾って、なんとなく一行だけ目に入った。
それだけで、その人が急に、人になった。
同僚の戸田くんは、作業時間を数えている。
二十代で、体力があって、段取りがうまい。一件あたりの作業時間を毎回記録していて、去年より平均で四十分短くなったと嬉しそうに言っていた。早く終われば遺族の立ち会いが短くて済む。彼の言うことは、まったく正しい。
同じ現場に入って、同じ箱を運んでいる二人が、まったく別のものを数えていた。
戸田くんは分を数え、志乃は、読んだ人の数を数えている。
どちらが正しいということはない。ただ、戸田くんの数字は日報に残り、志乃の数えているものは、どこにも書けない。書いた瞬間に、それは業務ではなくなる。
一度、戸田くんに聞かれたことがある。
「倉本さん、この仕事、しんどくないすか」
志乃は「しんどいよ」と答えた。戸田くんは笑って、「俺、わりと平気なんすよね」と言った。それから少しだけ真面目な顔になって、こう続けた。
「早く終わらせたら、遺族さんが泣く時間が減るじゃないですか。それが一番いいと思ってて」
志乃は頷いた。この子は正しい。
正しいことをしている人が隣にいると、自分のしていることの形が、よけいはっきり見える。志乃は遺族の時間を減らしていない。むしろ自分の時間を、誰にも頼まれていないことに使っている。
第四章 届かなかった言葉
去年の十一月、電話がかかってきた。
半年前に整理した現場の、依頼主の女性だった。当時、母親を亡くしていた。あのときは「全部処分で」と言われていた。
「あの、つかぬことをお伺いしますが」と、その人は言った。
「母の荷物のなかに、手紙みたいなものは、ありませんでしたか」
志乃は、あった、と即座にわかった。
便箋が三枚あった。宛名は書かれていなかったが、内容から娘に向けたものだと、志乃にはわかっていた。謝罪だった。若いころに娘を長く預けたことについて、母親は詫びていた。書いたが、渡せずにいたのだと思う。文末はこう終わっていた。「ごめんね、と言うには遅すぎるので、書くだけにします」
志乃はそれを、車のなかで一度だけ読んで、翌朝、処分場へ持っていった。
電話口で、志乃は言った。
「ご指定どおり、処分させていただきました」
嘘ではない。処分したのは事実だ。それでも、これは嘘だと思った。
「そうですか」と、その人は言った。少し間があって、「いえ、たぶん無かったんだと思います。すみません、変なことを聞いて」と言って、電話は切れた。
志乃は受話器を置いて、しばらく立っていた。
自分がしてきたことの形が、そのときはっきり見えた。あの母親の最後の言葉は、宛先に届かなかった。代わりに、まったく関係のない人間が一人、読んだ。
供養だと思っていた。違ったかもしれない。あれは、横取りだったのかもしれない。
その夜から一か月、志乃は箱を開けなかった。
第五章 二十年前の束
読まなくなって一か月目の夜、志乃は自分の部屋で、父のことを考えていた。
父が死んだのは二十年前、志乃が十八のときだった。叔母と二人で遺品を片づけた。押し入れの奥から、輪ゴムでまとめた封筒の束が出てきた。
封は切られていなかった。書いて、出さなかったものらしかった。表書きのあるものもあった。母の名前があり、志乃の名前もあった。
叔母が「読む?」と聞いた。
志乃は「いい」と答えた。そのまま、ゴミ袋に入れた。
理由は自分でわかっている。父を許していなかったからだ。
父は志乃が小学生のころ、何年か家を出ていた。戻ってきたときにはもう病気だった。母は何も言わずに看たが、志乃は最後まで口をきかなかった。病室にも数えるほどしか行かなかった。
読んだら、許してしまいそうだった。十八の志乃には、許さないでいることのほうが必要だった。あの束のなかに何が書いてあったのか、いまも知らない。知らないまま、二十年たった。
二十年たって、志乃は他人の手紙を読んでいる。
自分が読まなかった分を、どこか別の場所で払おうとしているのだと、そのとき初めて思った。誰に払っているのかもわからないまま、七年間、払い続けてきた。
翌週、社長のあかりさんに、志乃は言いかけた。全部話してしまおうと思った。処分の前に、実は、と切り出したところで、あかりさんは志乃の顔を見た。
見て、それ以上は聞かなかった。代わりに、こう言った。
「捨てる前に、いっぺん手ぇ合わせとき」
それだけだった。
読むな、とも言われなかった。読んでいい、とも言われなかった。あかりさんはただ、志乃のしていることに、形をひとつ与えて、奥へ行った。
エピローグ
いまも、志乃は読んでいる。
変わったのは、読み終わったあとだ。箱を閉じて、その上に両手を置いて、少しだけ目を閉じる。誰かに見られたら、変な人だと思われるだろう。夜の駐車場で、段ボールに手を合わせている女がいる。
祈っているわけではない。志乃は特に信心深くもない。
ただ、この人にはたしかに読者が一人いた、ということを、その一分で確かめている。読まなければ、誰にも読まれないまま燃やされて終わる。読めば、少なくとも一人には届いたことになる。
宛先ではない。それはわかっている。宛先の人には、たぶん一生届かない。
それでも、ゼロと一のあいだには、途方もない差がある。
――あなたは毎日、なにを見届けていますか。
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