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にぎりかえす、という許し

早く産んでしまった自分の身体を責める代わりに、保育器の中の指一本の握力を毎日測ることで、「生きていていい」という許可を、子どもからもらいに行く人生。

にぎりかえす、という許し

朗読で聴く

第一章 二十七週

陣痛が来たのは、予定日より十週間も早い夜だった。

佐倉理沙は、その日の夕方まで普通に働いていた。地方銀行の窓口で、いつもどおり通帳を受け取り、いつもどおり数字を打ち込んでいた。午後八時、自宅の台所で立っていられなくなった。それだけだった。

救急車の中で、理沙は何度も同じことを考えていた。今日、重いものを持ったから。先週、無理をして残業したから。妊娠がわかってからも、コーヒーを一日一杯だけ飲み続けたから。理由を探す速さに、自分でも驚いた。理由が見つかれば、まだどうにかできる気がしたのだ。

緊急帝王切開だった。

生まれた娘に、産声はなかった。八百六十グラム。医師も看護師も、驚くほど静かに、そして速く動いていた。理沙が見たのは、透明な箱に運ばれていく小さな塊の、ほんの一瞬の輪郭だけだった。

麻酔が切れたあと、夫の隆一が「大丈夫だって、先生が」と言った。理沙は頷いた。そして、天井を見ながら思った。

——わたしの体は、この子を最後まで抱えていられなかった。

その一行が、そのあとの三か月、彼女の中で毎日鳴り続けることになる。

第二章 丸い窓

新生児集中治療室は、思っていたよりも静かだった。

いくつもの保育器が並び、そのひとつひとつが低く光っている。機械の音は絶え間なくあるのに、うるさいとは感じない。ここでは音がすべて、誰かの命の速さを報告しているのだと、理沙はあとで知った。

娘には陽菜と名前をつけた。名前をつけるとき、理沙の手は震えていた。名前をつけたら、この子がいなくなったときに、その名前が残ってしまうと思った。

保育器の側面には、丸い窓がついている。腕を通すための穴だ。看護師に「触れますよ」と言われた最初の日、理沙は手を入れられなかった。

自分の手が汚れている気がした。この子を早く外に出してしまった体の、続きの手だと思った。

矢島さんという看護師が、そのとき隣に立っていた。五十を過ぎたくらいの、背の低い人だった。矢島さんは急かさなかった。ただ、しばらくしてから、こう言った。

「体重はね、毎日先生が測ります。だからお母さんは、測らなくていいの」

理沙は矢島さんを見た。

「お母さんにしか測れないものがあるから、そっちを見ていて」

その日、理沙は初めて丸い窓に腕を通した。人差し指を一本だけ、そっと差し出した。

陽菜の手が、動いた。四本の指が、理沙の指の第一関節に届かないくらいの短さで、それでも確かに巻きついた。

弱い、と理沙は思った。同時に、ある、とも思った。

第三章 数える

翌日から、理沙は数えるようになった。

正確には、数えるという言い方は正しくない。数字にはならないからだ。ただ毎日、同じ時間に丸い窓に腕を通し、同じ人差し指を差し出し、握られる強さを、去年の自分と比べるように、昨日の自分と比べた。

家に帰ると、大学ノートに一行だけ書いた。

〈九月十四日 きのうより、すこし強い〉

翌日は〈同じ〉と書いた。その翌日も〈同じ〉だった。三日続けて〈同じ〉が並んだ日、理沙は台所で声を出さずに泣いた。

隆一は優しかった。優しかったが、違った。彼は「今日も無事だった」と言い、理沙は「今日は少し強かった」と言った。同じ日の話をしているのに、二人が見ているものは違っていた。隆一は生きているかどうかを見ていて、理沙は、生きていていいと言われているかどうかを見ていた。

隣の保育器には、双子の男の子がいた。母親は理沙より少し年上に見える人で、面会時間になるとノートを開き、いつも数字を書き写していた。ある日、理沙は思い切って尋ねた。何を書いているんですか、と。

「グラムです」とその人は言った。「昨日より何グラム増えたか。それだけ」

理沙は頷いて、それ以上聞かなかった。同じ部屋で、同じ時間に、同じように腕を通しているのに、二人が確かめているものは違った。その人にとっては数字が命の証で、理沙にとっては指の力だった。どちらが正しいということはない。ただ、人はそれぞれ、自分にしか意味のわからないものを毎日測って生きているのだと、理沙はそのとき初めて思った。

眠れない夜が続いた。眠れないのは心配だからではなかった。眠ると、朝が来て、また丸い窓の前に立たなければならないからだった。あの指が今日も握り返してくれるかどうかは、理沙には決められない。決められないものに一日の全部を預けるということが、こんなに怖いとは知らなかった。

夜中の三時、理沙はよく自分の腹の傷に手を当てた。まだ痛む横一文字の線を指でなぞりながら、責めた。責めるのをやめる方法を、彼女は知らなかった。

第四章 握らない日

十月の終わり、陽菜の状態が落ちた。

感染症だった。医師の説明は落ち着いていたが、使われる薬の名前が増え、機械の数も増えた。面会の時間が短くなった。

その日、理沙はいつものように腕を通し、人差し指を差し出した。

陽菜の手は、動かなかった。

理沙はそのまま、三分ほど指を入れたままにしていた。動かない。もう一度、指の腹を小さな手のひらに触れさせた。動かない。

その夜、理沙は初めて、思っていたことを声に出した。台所の床に座り込んで、隆一に向かって言った。

「わたしが、産んだから」

隆一は何も言えなかった。何を言っても、その一行を消せないことを、たぶん彼もわかっていた。

翌日も、その翌日も、握り返しはなかった。ノートには何も書けなかった。書けない日が四日続いたとき、理沙はノートを閉じて、引き出しの奥にしまった。

もう測らない、と思った。測るから、痛いのだと思った。

それでも彼女は、毎日、丸い窓に腕を通した。数えないと決めたあとも、指を差し出すことだけはやめなかった。理由は自分でもわからなかった。ただ、それをやめたら、自分がこの子に対してできることが本当に何ひとつなくなる気がした。

三日目の夜、理沙は引き出しからノートを出して、開かないまま膝の上に置いていた。開けば、〈きのうより、すこし強い〉という自分の字が並んでいる。あれを書いていたころの自分は、幸せだったのだと気づいた。弱くても、握り返しさえすれば、その日を終われたのだ。終われる日があるということが、どれほどのことだったか。

そのノートを、彼女は結局その夜も開かなかった。

第五章 ゆるし

五日目の朝だった。

理沙が指を入れて、いつものように待っていると、陽菜の指が、動いた。

弱い。前より、はっきりと弱い。それでも、巻きついた。

理沙はその場にしゃがみ込みそうになって、保育器の台に額をつけた。看護師が驚いて駆け寄ってきたが、彼女は泣いてもいなかった。ただ、息ができなかった。

矢島さんが後ろから、背中に手を置いた。そして言った。

「お母さん。あなたが測っていたのはね、この子の力じゃないのよ」

理沙は顔を上げた。

「あなたが、ここにいていいかどうか。それを、この子に聞いていたの」

そのとおりだった。三か月、毎日毎日、理沙は許可をもらいに行っていた。生きていていいという許可を、まだ言葉を持たない、いちばん小さな人からもらいに行っていた。そして陽菜は、一日も欠かさずそれを出していた。握れなかった五日間も、出していたのだと、理沙はそのとき初めて思った。

自分を許す方法を、彼女はとうとう自分では見つけられなかった。見つける必要がなかったのかもしれない。許しはもう、毎朝、指先に届いていた。

陽菜が保育器を出たのは、その二十日後だった。

エピローグ

四年が経った。

陽菜は小さい。同じ年の子と並ぶと、頭ひとつ分ちがう。走るのも遅いし、風邪もよくひく。それでも、よく喋る。

横断歩道の手前で、陽菜が理沙の手を握った。信号が変わるのを待つあいだ、理沙はいつも同じことをしている。娘の握力を、確かめている。四歳の手はもう充分に強くて、確かめる必要などとっくにない。それでも、指先に意識を置いてしまう。

たぶん一生やめられないのだろうと、理沙は思う。これは癖ではなく、彼女がこの人生でずっとやっていくことなのだ。誰かの生きていていい理由を、手のひらの温度で受け取り続けること。それが、この体に与えられた仕事だったのかもしれない。

信号が青に変わる。

小さな手が、先に引っぱった。

――あなたは毎日、なにを確かめていますか。

ソウルミッション358

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