奇跡の重さ

奇跡の重さ
第一章 灰色の朝
目が覚めると、またその天井だった。
三十七歳の田中誠は、毎朝同じ瞬間に同じことを思う。ああ、今日も始まってしまう。
アラームより五分早く意識が戻ってくるのはもう何年も続く習慣で、その五分間、彼は布団の中で天井の染みを数える。右上の角に三つ。窓のそばに一つ。中央付近に、雲のような形をした大きなもの。
会社では部下を三十人抱えるプロジェクトマネージャー。妻と七歳の娘がいる。ローンは残り二十二年。親の介護がそろそろ視野に入ってきた。
誠にとって、生きることは「こなすこと」だった。
朝食を食べる。電車に乗る。会議に出る。メールを返す。帰宅する。風呂に入る。眠る。また目が覚める。
そのループの中で、何かが少しずつ、砂のようにこぼれ落ちていた。何をこぼしているのかも、もうわからなかった。
十月のある火曜日、誠は出社途中の駅のホームで立ちくらみを起こした。
第二章 白い部屋
目が覚めると、白い天井だった。
染みはなかった。代わりに、蛍光灯が一定の明るさで四角く光っていた。
「田中さん、聞こえますか」
看護師の声。体を動かそうとして、右腕に管が刺さっていることに気づいた。
診断は「過労による一過性の意識消失」だった。大事には至らない、と医師は言った。ただ、三日間の入院安静を告げられた。
その夜、誠はひとりで病室の天井を見ていた。
ここ数年で初めて、何も「しなくていい」時間だった。スマートフォンは充電切れ。ノートパソコンは家にある。することが、何もない。
最初の二時間は、何もできないことへの焦りだった。会議はどうなる。あのクライアントへの返答は。部下への指示は誰が出す。
しかしその焦りも、深夜を過ぎた頃には静かになっていた。
誠はふと、自分の胸に手を当てた。
どくん、どくん。
当たり前のように、心臓が動いていた。
何年ぶりだろう、こうして自分の鼓動を聞いたのは。いつからか、この動きを「あって当然のもの」として忘れていた。三十七年間、一度も止まらずに動き続けているこの小さな臓器のことを、誠は考えたことがなかった。
どくん、どくん、どくん。
なぜか、涙が出た。
第三章 病院の食事
翌日、昼食が運ばれてきた。
白身魚の煮付け、ほうれん草のお浸し、みそ汁、白米。
病院食だ、とどこかで構える気持ちがあった。美味しくはないだろう、と。
誠はゆっくりと箸を持ち、みそ汁を一口すすった。
その瞬間、何かが止まった。
温かい。
ただそれだけのことが、異様なほど鮮明に感じられた。舌の上に広がる出汁の香り。塩の角が少し丸い、やさしい味。体の芯に、じわりと温かさが広がっていく。
誠は三十七年間、食事をしてきた。しかし「食べながら、これほどまでに味わったことがあっただろうか」と、初めて問うた。
コンビニのおにぎりを画面を見ながら流し込んだ朝。接待の高級料理を、商談のことを考えながら咀嚼した夜。妻が作った夕食を、「うん、美味い」とだけ言って箸を置いた日々。
食べていた。でも、味わっていなかった。
白身魚を口に入れた。ほろりとほどける身。醤油と砂糖がしみた、素朴な甘さ。
有難い。
言葉にならない何かが、胸の奥から湧き上がった。誰かに感謝したいのに、誰に向ければいいかわからない。それでも誰かに、何かに、「ありがとう」と言いたかった。
隣のベッドから、おじいさんの寝息が聞こえた。窓の外で、風が木の葉を揺らしていた。誠はみそ汁の椀を両手で包んで、その温かさをしばらくの間、手のひらで感じていた。
第四章 娘が持ってきたもの
三日目の夕方、妻の美和と娘の葵が見舞いに来た。
葵は小学二年生で、病院というものが少し怖いらしく、誠のベッドのそばでもじもじしていた。
「パパ、これ」
葵が差し出したのは、折り紙で作った鶴だった。赤と金のまだら模様の、少し不格好な鶴。
「病気が治るようにって、葵が自分で折ったの」と美和が言った。

誠は鶴を受け取った。小さな手が、一生懸命に折ったことが伝わってくる、くっきりとした折り目。
葵が生まれた日のことを、唐突に思い出した。
分娩室の外で三時間待って、産声を聞いた瞬間。ガラス越しに見た、真っ赤で皺くちゃの小さな顔。体重三千二百グラムのその命を、初めて腕に抱いたとき、誠は「自分がこの子を守るのだ」と思った。
あの感動は、どこへ行ったのだろう。
いつから葵は「育てなければならない存在」になり、「勉強させなければ」「習い事は」「将来は」という計算の中に収まるようになったのだろう。
「葵」と誠は呼んだ。「ありがとう」
葵がぱっと顔を上げた。誠はもう一度、今度はゆっくりと言った。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
葵は照れたように笑い、ベッドに駆け寄って誠の腕に飛び込んだ。美和が目を赤くして、窓の外を向いた。
点滴の管がついた腕で、誠は娘の小さな体を抱いた。温かかった。息をしていた。生きていた。
どくん、どくん。
ふたつの心臓が、並んで動いていた。
第五章 退院の朝
三日後、誠は病院を出た。
十月の朝の空気が、肺の中に入ってきた。
誠は立ち止まった。
呼吸というものを、今まで「している」と思ったことがなかった。眠っているときも、会議中も、怒っているときも、悲しんでいるときも、この体は勝手に空気を吸い、吐き続けていた。一度も、「呼吸しなければ」と命令しなくても。
自分の体が、自分のために働き続けていた。三十七年間、ずっと。
病院の前に銀杏の木が一本あった。葉が黄色く色づき始めていた。誠はそれをしばらく見ていた。
どこかの誰かが書いた詩の一節を、ふいに思い出した。確か、SNSで流れてきたものだった。流し読みをして、すぐにスクロールした。あの時は何も感じなかった言葉が、今は胸の奥で静かに共鳴した。
生まれて来たのは奇跡。この身体を授かったのも奇跡。
そうだ、と誠は思った。
私はここにいる。ただそれだけのことが、奇跡だったのだ。
心臓が動いている。息ができる。眠れる。食べられる。味わえる。
朝、目が覚める。それが、奇跡の始まりだった。
誠はゆっくりと歩き出した。電車に乗るために。家に帰るために。妻と娘の待つ場所へ。
足の裏が、地面を踏んでいる感触があった。
それさえも、今日の誠には、愛おしかった。
エピローグ
それから半年が過ぎた。
誠の生活は、大きく変わったわけではない。会社には戻り、部下を抱え、ローンを払い、親の様子を気にかけながら日々を送っている。
ただ、朝の五分間が変わった。
天井の染みを数える代わりに、誠は目を閉じて、自分の心臓の音を聞く。
どくん、どくん。
今日も動いている。
それだけで、何かに「ありがとう」と言いたくなる。
誰に向けるともない感謝が、静かに胸の中で生まれる。それが何なのか、誠にはまだうまく説明できない。神様かもしれないし、宇宙かもしれないし、ただの生命の不思議かもしれない。
でも確かなことがひとつある。
この命は、当たり前ではない。
生まれてきたことも。この体も。心臓が動いていることも。息ができることも。眠れることも。食べられることも。そして——味わえることも。
すべてが、奇跡の塊だった。
有難い、と誠は思う。
その言葉の本当の意味を、今は知っている。
有ることが、難しい。
だから、有難い。
布団の中で、誠はそっと微笑む。アラームが鳴るまで、あと四分。
今日という奇跡が、また始まろうとしていた。

アマリエの物語の続きがここに
あなたの魂の物語を生きる