螺旋の庭で、あなたに逢う

螺旋の庭で、あなたに逢う
第一章 雨の午後、閉じた手のひら
三月の雨が、東京の古い商店街を濡らしていた。
葛城奈緒は、父の形見の傘を差しながら、行く当てもなく歩いていた。三十七歳。離婚から二年、母の死から半年。生きることが、積み重なった荷物を担ぐことと同義になって久しかった。
傘の骨が一本、折れかけていた。父が生前に愛用していたこの傘を、奈緒はずっと捨てられずにいた。雨粒が歪んだ布地から染み込んで、肩をじわりと濡らす。それでも捨てられない。
「ごめんなさい」
傘に向かって、奈緒は呟いた。誰かに謝りたくて、でも誰に謝ればいいかわからなくて、いつも最後はこの傘に言っていた。
商店街の端に、見慣れない小さな店があった。
白木の看板に、筆で書かれた文字。『螺旋堂』。
奈緒は足を止めた。ガラス越しに見える店内には、古い本や石、乾燥した植物が並んでいた。ハーブの甘い香りが、雨の匂いの中にかすかに混じっていた。
吸い込まれるように、扉を押した。
第二章 老人の話す、時間という螺旋
店の奥に、七十代と思しき老人が座っていた。白髪で、眼鏡のレンズが分厚く、しかし目だけが若者のように輝いていた。
「お入りなさい。雨が激しくなってきた」
老人は顔も上げずに言った。手元では、何か細い糸を編んでいた。
奈緒は棚を眺めるふりをしながら、店の中を歩いた。古い写真集、石英の結晶、薄い紙に書かれた詩のような言葉が額縁に入って飾られていた。
「悲しんでいる」
老人が、言った。
奈緒は振り返った。
「わかりますよ。空気が教えてくれる」老人は編み物を膝に置き、奈緒を見た。「座りなさい。お茶を入れましょう」
断る理由が見つからなかった。
奈緒は丸椅子に腰を下ろした。老人が細い手で鉄瓶を傾け、湯気の立つ茶を注いだ。
「時間は直線ではないのですよ」
老人は静かに言った。
「え?」
「あなたは、失ったものを数えているでしょう。夫、母、父。線の上に並べて、もう戻れないと嘆いている」
奈緒は言葉が出なかった。
「でも、時空間は螺旋なのです」老人は糸の束を持ち上げた。「見なさい。この糸は巻かれているでしょう。ある点は、何度も近くを通る。二度と戻らないのではなく、形を変えて、また巡ってくる」
「そんなこと言われても」奈緒は、声が震えるのを感じた。「母はもういない。父もいない。戻ってこない」
「そうです」老人は頷いた。「この世の形では、戻らない。しかし——」
老人は窓の外の雨を見た。
「感謝は、時空を超えるのです」
第三章 庭に咲く、母の好きだった花
その夜、奈緒は夢を見た。
実家の庭だった。子供の頃に住んでいた、千葉の古い家。母が丹精込めて育てていた庭。白いクレマチスが、格子に絡んで咲いていた。
夢の中で、奈緒は子供の姿に戻っていた。
母がいた。エプロン姿で、土をいじっている。
「お母さん」
奈緒は駆け寄った。夢だと、どこかでわかっていた。でも走るのをやめられなかった。
母が振り返った。皺のない、若い頃の顔だった。
「奈緒。来たの」
「来たの、じゃない。ずっと会いたかった」
母は笑った。奈緒が大好きだった、目尻に皺が寄る笑い方で。
「この庭、見て。あなたが嫌いだって言った雑草、ここにも生えてる」
「そんなこと今は——」
「でも、この雑草ね」母は丁寧に、小さな草を引き抜いた。「根が強くて、抜いても抜いても来るの。最初は嫌だったけど、今は毎朝ここに来てこの子を抜くことが、楽しみになった」
奈緒は黙って聞いた。
「奈緒、あなた今、何も楽しくないでしょう」
「……うん」
「それはね、楽しもうとすることが、申し訳ない気がするからでしょう」
奈緒の目に、涙が滲んだ。
「私が死んだのに、笑っていいのか、ごはんがおいしいと思っていいのか、って」
「お母さん——」
「いいのよ」母は立ち上がり、泥のついた手で奈緒の頬に触れた。温かかった。「この世でしか感じられないことがあるの。土の感触、雨の匂い、空腹と満腹。私はもうここにいないけれど、あなたはまだここにいる」
「嫌だよ。一緒にいたい」
「一緒にいるわ」母はクレマチスを一輪、摘んで奈緒に渡した。「螺旋の中で、ずっと一緒」

目が覚めた。
枕が、濡れていた。でも奈緒は不思議と、軽かった。胸の奥に、長い間忘れていた感覚があった。
——温かい、何か。
第四章 ありがたく、味わう
翌朝、奈緒はスーパーで食材を買った。
何ヶ月ぶりかに、料理をしようと思った。母に教わった、鶏の煮物。簡単な料理だったけれど、いつもそれが食べたくなると母の台所に行っていた。
砂糖と醤油が鍋の中で合わさる、甘い湯気が立ちのぼった。
奈緒はその匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。
——ありがたく、味わわせてもらう。
どこかで聞いた言葉のように思えた。いや、夢の中ではなかった。もっと深い場所から来た言葉。
箸を持ち、一口食べた。
涙が出た。しかし今度は、悲しい涙ではなかった。
おいしかった。本当においしかった。この感覚を持てる自分が、まだここにいることへの——何という言葉が合うだろう——感謝、だった。
食後、奈緒は父の傘を持って外に出た。もう雨は上がっていた。傘は差さなかった。ただ持って歩いた。
折れた骨のところに、指を当てた。
「お父さん、ありがとう」
初めて言えた言葉だった。
死んでから、一度も言えなかった。言ったら終わりになる気がして、言えなかった。
でも今、こう思った。
感謝は、終わりではなく、螺旋の続きなのだと。
第五章 一歩ずつ、道は続く
一週間後、奈緒は再び『螺旋堂』を訪れた。
老人は今日も奥に座り、あの糸を編んでいた。
「来ましたね」
「来ました」奈緒は微笑んで言った。「少し、変わったかもしれません」
「変わったというより、思い出したのでしょう」
老人は糸から目を離さずに言った。
「思い出した?」
「魂は、ここに来る前から知っているのです。ただ、この世に生まれると忘れる。喜びを、感謝を、一瞬一瞬がどれほど貴重かということを」老人は手を止めた。「彼の世というものがあるとすれば、そこには肉体がない。だからこそ、今ここで感じることのすべてが、唯一無二の体験なのです」
奈緒は窓の外を見た。桜が一輪、咲きかけていた。
「彼の世へ続く道は、怖いですか?」と奈緒は聞いた。
「怖いというより、次の螺旋の始まりですね」老人は再び糸を動かした。「死というのは終わりではなく、巻きが変わるだけです。そして各々の巻きには、その巻きにしかできない体験がある」
奈緒は頷いた。
「この世でしか感じられない感情を、大切にしなさい」老人は言った。「怒りも、悲しみも、喜びも、空腹も、愛しい人の体温も。全部、この世の宝です」
奈緒は、胸に手を当てた。
確かに、何かが動いていた。鼓動ではなく、もっと奥の、静かな何かが。
「ありがとう、ございます」
老人は微笑んだ。
「一歩ずつ、進んでいけばいい。螺旋は続いていますから」
エピローグ
その春、奈緒はカウンセラーの資格を取るための勉強を始めた。
大きな決断ではなかった。ただ、誰かの隣に座っていたいと思った。かつての自分のように、行く当てなく商店街を歩いている人の。
梅雨の晴れ間に、奈緒は亡き母の庭を思い出して、自分のマンションのベランダに小さなプランターを置いた。クレマチスの苗を、ホームセンターで買ってきた。
土に指を差し込むとき、その冷たさとやわらかさが、たまらなく愛しかった。
この感覚は、今ここにしかない。
父の形見の傘は、骨を修理に出した。捨てないけれど、しまい込まない。必要な時に使う。それが、形見との正しい付き合い方だと、今は思う。
夕暮れ時、ベランダに出ると、空がオレンジと紫のグラデーションで染まっていた。
奈緒は深く息を吸った。
どこかで読んだ詩の言葉が、胸の中でこだました。
——時空間の螺旋の中、感謝がこだまする。ありがたく味わせてもらう喜びを胸に、此の世でのみ得れる感情を大切にして、彼の世へと続く道を、一歩ずつ進んでいく。
夕空の色は、刻々と変わっていった。
この色も、今日の今この瞬間にしかない。
奈緒はそれを、目に、胸に、魂に、刻み込んだ。
螺旋は、続いていた。
——了——

アマリエの物語の続きがここに
あなたの魂の物語を生きる