黄色い魂の道しるべ

黄色い魂の道しるべ
第一章 灰色の春
春というのに、榊原美咲の目に映る世界はすべてモノクロだった。
三十二歳。東京のデザイン会社に勤めて八年。昨年の秋、七年間付き合った恋人に別れを告げられ、半年後には父が脳梗塞で倒れた。仕事だけが残った。仕事さえも、最近は指先に力が入らない。
その朝、美咲は久しぶりに早起きして、実家近くの多摩川の堤防を歩いていた。父の見舞いの前に、少し頭を冷やしたかっただけだ。リハビリ病院の廊下は蛍光灯が明るすぎて、いつも頭が痛くなる。
堤防の斜面に、タンポポが咲いていた。
別に珍しくもない。春になれば、どこにでも咲く花だ。しかし美咲はその日、足を止めた。なぜかわからない。ただ、何かが彼女の足首を、やさしく掴んだような気がした。
コンクリートの割れ目から、一本のタンポポが顔を出していた。アスファルトの端、誰かに踏まれたらしく茎が少し曲がっている。それでも花は、鮮やかな黄色で空に向かって開いていた。
どこから来るのだろう、この力は。
美咲は思わずしゃがみ込んだ。スーツの膝が地面に触れることも気にせず、その小さな花を、しばらくじっと見つめた。
第二章 おばあちゃんの記憶
リハビリ病院の父の部屋には、小さな窓がある。
父・榊原義男は六十八歳。かつては地元の中学校で三十年以上国語を教えた教師で、定年後は家庭菜園と読書を楽しんでいた。脳梗塞の後遺症で右半身にまだ麻痺が残り、言葉もうまく出てこないことがある。それでも今日の父は、美咲の顔を見るなりかすかに笑った。
「み……さき」
「来たよ、お父さん」
美咲は花の話をした。堤防のコンクリートのタンポポのこと。なぜかその花が頭から離れないこと。
父はゆっくりと目を細めた。そして左手で、ベッド脇のノートを指差した。
リハビリのために毎日少しずつ書いている日記帳だ。美咲がページを開くと、ひどく不揃いな文字で、こんな一節があった。
タンポポは、死んでも死なない。
「お父さん、これ……」
「お……かあさん、が……言ってた」
父方の祖母、榊原ハルは美咲が十歳のときに亡くなった。土のにおいのする人だった。畑仕事が好きで、いつも割烹着を着ていて、美咲が遊びに来るとおはぎを作ってくれた。
「おばあちゃんが?」
父は目を閉じたまま、ゆっくり頷いた。
「タンポポは……根が残る……から。刈っても……また……咲く。人間も……おんなじだって……言ってた」
美咲は胸の奥で、何かが静かに揺れるのを感じた。
祖母は信心深い人だった。お盆には必ず仏壇を花で飾り、亡くなった人々の話を子供たちにして聞かせた。死は終わりではなく、次の旅立ちだと、そう信じて疑わなかった。美咲はその言葉を、子供の頃は半分も理解していなかった。
「みさき……疲れてるか?」
父の左手が、そっと美咲の手に重なった。
涙が出てきた。声もなく、ただ涙が出てきた。
第三章 根の深さ
次の日曜日、美咲は図書館に行った。
タンポポのことを調べたくなったのは、我ながら妙なことだと思う。しかし何かに引っ張られるように、植物図鑑のコーナーに向かった。
タンポポの根は、地面の下に深く、深く伸びている。表面から見えているのはほんの一部で、垂直に伸びる太い根が、地中で土をしっかりと掴んでいる。その根が残っている限り、地上部を何度刈り取っても、タンポポは再び芽吹く。
転生する人間のごときタンポポ。
美咲の頭の中で、誰かの声が聞こえた気がした。
それは祖母の声に似ていた。
図書館の帰り道、商店街を歩いていると、路地の奥に古い花屋があった。入ったことのない店だ。なぜか足が向いた。
店先に、野の花を集めた小さな花束があった。タンポポが一本混じっていた。美咲はそれを買った。
「タンポポをお買い上げになる方、珍しいですね」
店主の老女が微笑んだ。七十代だろうか、白い割烹着を着ていた。
美咲は思わず足を止めた。
「割烹着……」
「何かおっしゃいました?」
「いえ、あの……なんでもないです」
しかし老女はにこにこしながら続けた。
「タンポポはね、お墓にも咲くんですよ。どんな土地にも根を張って、また咲く。昔の人はね、タンポポが咲いているのを見て、ここに誰かの魂が宿っているって言ったんですって」
美咲の心臓が、静かに跳ねた。
「誰かの……魂」

「亡くなった人が、残した人に伝えたいことがあるとき、タンポポになって会いに来るって。古い言い伝えなんですけどね」老女は目を細めた。「信じます?」
美咲はしばらく黙っていた。そして、
「……信じてみようと思います」
と、自分でも驚くほど素直に答えていた。
第四章 綿毛になる日
四月の終わり、タンポポは綿毛になっていた。
美咲は再び堤防を歩いた。あの日と同じ場所に行くと、コンクリートの割れ目のタンポポは、もう黄色い花びらをすべて閉じて、白い綿毛の球になっていた。
風が吹いた。
綿毛がふわりと舞い上がる。一つ、また一つと、空へ向かって飛んでいく。それぞれがどこかに降り立って、新しい根を張るために。
美咲は泣いていた。今度は声を出して泣いていた。
祖母が亡くなったとき、自分は泣けなかった。父が倒れたときも、恋人に別れを告げられたときも、本当の意味で泣けなかった。ずっと何かが胸の中で固まっていた。それが今、綿毛と一緒に解けていく気がした。
生まれ変わってまた、新たな生命を宿す。
祖母は死んでいなかった。父の不揃いな文字の中に生きていた。花屋の老女の微笑みの中に生きていた。コンクリートの割れ目に黄色い花を咲かせていた。そして今、白い綿毛になって空に飛んでいく。
魂は続く。形を変えて、伝えたいものを次の世代に手渡しながら。
美咲のスマートフォンが鳴った。病院からだった。
「榊原さん、お父様が今朝、初めて自分でリハビリ室まで歩いていらっしゃったんです。看護師が止めるくらいの勢いで」
受話器の向こうで、看護師が笑っていた。
美咲は綿毛を見上げながら、笑った。
「父らしい」と思った。根が深いから、また立ち上がれる。
第五章 タンポポを植える
六月。美咲の仕事机の片隅に、小さな植木鉢が置かれている。
先月、父が退院した。完全回復ではないが、杖をついて歩けるようになった。実家の家庭菜園に戻るのはもう少し先だが、父は毎日窓から庭を眺めている。
美咲は職場に、タンポポの種を持ってきた。
「変わってるね」と同僚に言われた。
「そうかもしれない」と美咲は答えた。
デザインの仕事にも、少しずつ力が戻ってきた。指先が、またアイデアを求め始めている。何が変わったのか、うまく説明できない。ただ、あの堤防のタンポポを見た日から、何かが違う。
美咲は気づいた。自分がずっと、「終わり」ばかりを恐れていたことに。恋愛が終わること、父が弱ること、自分の若さが失われること。終わりを恐れるあまり、始まりが見えなくなっていた。
しかしタンポポは知っている。
刈られることを恐れない。風に乗って飛んでいくことを恐れない。どこかに降り立って、また根を張ることを知っているから。
魂もそうかもしれない。今の自分という形にしがみつかなくていい。悲しみも、別れも、喪失も、すべて次の芽吹きのための養分になる。
その繰り返しこそ、魂の進化なのかも。
美咲は植木鉢に水をやりながら、祖母の顔を思い浮かべた。土のにおいのする人。おはぎを作ってくれた人。「タンポポは死んでも死なない」と教えた人。
「おばあちゃん、見てる?」
窓の外、東京の空は青かった。
どこかに、小さな綿毛が一つ飛んでいた。
エピローグ
その年の秋、美咲は一冊のノートを買った。
日々の気づきを書き留めるためのもの。最初のページには、父が教えてくれた言葉と、あの堤防で感じたことを書いた。そして最後の一行に、こう添えた。
ひたすらに生きる、タンポポの姿から学びを得て進もう。感謝を忘れずに。
人間は何を持って生まれ、何を置いていくのだろう。
美咲にはまだわからない。でも今は、それでいいと思っている。タンポポが根の深さを知らなくても花を咲かせるように、自分の魂の深さを知らなくても、今日を生きることはできる。
愛した人が去っても、愛した人を失っても、魂には根がある。見えなくても、消えなくても、深く深く伸びていく根が。
春になれば、また咲く。
必ず、また咲く。
転生する人間のごときタンポポの、生きる力強さはどこから来るのだろう——その問いに今の美咲は、こう答える。根から来る。見えないところで世界と繋がっている、魂の根から。
アマリエの物語の続きがここに
あなたの魂の物語を生きる