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天の筆、地の手——ある陶芸家の転生

天の筆、地の手——ある陶芸家の転生

天の筆、地の手——ある陶芸家の転生


第一章 破れた窯

三月の末、信州の山ふところに春はまだ薄く、朝の空気は刃のように冷たかった。

桐島蒼(きりしま・あおい)は、窯の前で膝をついていた。四十二年間、彼が生きてきた証のような窯——祖父の代から受け継いだ登り窯が、昨夜の地震で大きくひびを入れ、横腹に亀裂を走らせていた。

「終わった」

声に出してしまうと、それが事実になるような気がして、彼はすぐに口を閉じた。しかし胸の中では、もうとっくに終わっていた。

工房の負債は三百万を超えていた。後継ぎと期待していた息子は東京の会社員となり、もう陶芸には戻らないと宣言した。妻の陽子は二年前に他界し、蒼は一人でこの山の工房を守り続けてきた。窯の修繕費を計算すれば、それだけで百万近くかかる。

陶芸家として三十年。全国展で賞を取ったこともある。しかし今、彼の手元には傷んだ窯と、売れ残った皿が数十枚あるだけだった。

蒼は立ち上がり、工房の縁側に腰を下ろした。眼下には諏訪湖が光っていた。その水面が、亡き妻の眼差しに似ていると、いつも思っていた。

「陽子……俺は、もう限界かもしれない」

湖に向かって言葉を投げた。風が揺れた。桜の蕾がかすかにふるえた。

返事はなかった。当然だと思った。しかし、なぜか——涙がこぼれなかった。胸の奥の、最も深いところに、まだ何かが灯っていた。小さな、消えそうな光。


第二章 見知らぬ訪問者

翌朝、蒼は工房の掃除をしていた。割れた陶片を集め、庭の隅に積み上げながら、これからどうするかを考えていた。廃業か、移住か、あるいは——そこまで考えると、思考は霧のように散った。

午前十時を過ぎた頃、軽自動車が細い山道を登ってきた。降りてきたのは、六十代後半とおぼしき女性だった。白い髪をきれいにまとめ、紺の作務衣を着ていた。顔には深い皺が刻まれていたが、目だけが不思議なほど若く、澄んでいた。

「桐島蒼さんの工房はここですか」

「そうですが、今は——」

「売り物がなくても構いません。ただ、お話がしたくて参りました」

蒼は面食らいながらも、縁側に通した。女性は柳原静江と名乗った。長野の山奥に一人で住み、陶磁器の収集を長年続けているという。

「実は、三年前に京都の骨董市で、あなたの茶碗を手に入れたのです」

静江は風呂敷を解いた。そこから現れたのは、蒼が二十年前に焼いた一客の茶碗だった。土灰釉の渋い青灰色に、ところどころ窯変の赤が滲んでいる。蒼自身が最も愛した作品の一つで、なぜか市場に出てしまい、行方を知らなかった作品だった。

「毎朝、この茶碗でお茶を飲んでいます。この器を持つたびに、静かな気持ちになるんです。土の声が聴こえるような気がして」

蒼は黙って茶碗を受け取った。二十年ぶりに触れる、自分の作品。手のひらに乗せると、不思議なことに、まだ温かかった。いや、温かいのは自分の手か。それとも——

「あなたは今、何かを失おうとしていますね」

静江が言った。蒼は顔を上げた。

「顔に出ていますか」

「出ていません。でも、山はわかります。この土地が、あなたの苦しみを覚えています」

蒼は窯のことを話した。負債のことも、息子のことも、妻のことも。静江はただ静かに聴いていた。遮らず、慰めず、ただそこにいた。

話し終わると、蒼は少し軽くなっていた。

「蒼さん、一つだけ聞かせてください。あなたはなぜ陶芸を続けてきたのですか。名誉のためではないはずです。お金でもない。では何のために」

蒼は即座に答えられなかった。しばらく湖を見た。

「……土と話したかったのだと思います。土の中に何かがある。それを形にする時、私は——何かもっと大きなものの、手になっている気がする。自分が消えて、ただ器が生まれてくる」

静江は小さく微笑んだ。

「それが答えです」


第三章 天命という名の嵐

静江が帰ってから三日後、蒼は廃業届の書類を取り寄せた。机の前に座り、ペンを持った。書こうとした、その瞬間——電話が鳴った。

東京の美術館からだった。

「突然のご連絡で恐縮です。来年、私どもで開催する『現代の土の美』展への参加をお願いしたく……」

蒼は受話器を持ったまま、しばらく言葉が出なかった。

「私は今、窯が壊れていて——」

「存じております。実は、あなたのことを柳原静江さんからお聞きしました。彼女は私どもの名誉顧問でして」

翌週、美術館から担当者が訪れ、窯の修繕費の一部を制作費として前払いするという提案を持ってきた。条件は一つ、来年の秋までに新作を十点制作すること。

蒼は書類を眺めながら、ふと気づいた。

廃業届の書類と、制作契約書が、机の上に並んでいた。

どちらかを選ぶのは、自分だ。しかし蒼は、不思議なことに、もう答えを知っていた。それは頭で考えた答えではなかった。体の芯から、静かに湧き上がる確信だった。

窯を直そう。

挿絵

決めた瞬間、外で風が吹いた。桜が一斉に散り始めた。花びらが工房の庭を満たし、まるで白い雪のように舞った。蒼は縁側に出て、それをただ受け取った。

ありがとう、と思った。誰に向けてかはわからなかった。天に向けて、土に向けて、亡き妻に向けて、あるいはこの世界そのものに向けて。

感謝が溢れてくると、不思議なことに、何も怖くなかった。


第四章 無私の器

窯の修繕は二ヶ月かかった。その間、蒼は土を練り、形を考え、釉薬の配合を試し続けた。しかし今回の制作は、これまでとどこか違った。

蒼はもう、「いい作品を作ろう」とは思っていなかった。

「何かが、私を通して形になろうとしている」

そう感じながら手を動かした。自我が邪魔をする時は、目を閉じた。湖の水面を思い浮かべた。陽子の眼差しを思い浮かべた。何も考えなくなった時、手が動いた。

焼成の日、蒼は窯の前で一晩過ごした。火の管理をしながら、彼は眠らなかった。炎が語りかけてくるような気がした。土が変容し、熔け、固まり、器になっていく。その過程は、まるで生命の縮図だった。

翌朝、窯を開けた。

十二点の作品が並んでいた。蒼は一つ一つを取り出しながら、胸が震えた。これは自分が作ったのか。そう思う作品が、五点あった。これまでの三十年で、一番深く、一番静かで、一番——魂のある器だった。

美術館の担当者が見に来た時、彼は無言で一点を手に取り、しばらく動かなかった。

「桐島さん、これは……別次元の作品です」

蒼は黙って頷いた。説明する言葉を持っていなかった。ただ知っていた。この器は、自分だけのものではないということを。


第五章 天の意志を知る

秋の展覧会は、予想を超える反響を呼んだ。蒼の作品は初日に全点が売約済みとなり、翌年の個展の話も持ち上がった。しかしそれよりも蒼の心に深く刻まれたのは、会期中に一人の若者が工房を訪ねてきたことだった。

二十歳そこそこの、美術学校の学生だった。陶芸を志しているが、才能がないと言われ続けてきた、と彼は言った。展覧会で蒼の作品を見て、どうしても会いたかった、と。

「先生の作品には、技術じゃないものがある。何ですか、それは」

蒼はしばらく考えた。三十年前の自分に、誰かが同じ答えを教えてくれていたら、と思いながら。

「自分を消すことだよ」

若者は首を傾げた。

「うまくなろうとすると、自分が邪魔をする。認められたい、いいものを作りたい、そういう気持ちが、土の声を聴けなくする。でも、その気持ちを手放すと——何か大きなものが、君の手を借りて、器を作り始める」

「それが……天命ということですか」

蒼は少し驚いた。天命。その言葉が、胸の奥の何かに触れた。

「そうかもしれない。天命が下りてくる時、人はただの器になる。でも、その器になれるのは、無私の心があるからだと思う。自分を空にして、初めて何かが満ちてくる」

若者は深く頷いた。その目が、どこか静江の目に似ていた。


エピローグ 天と地の間で

それから五年が経った。

桐島蒼は今も信州の山で、土と向き合っている。窯は新しくなり、工房には週に二回、弟子たちが通ってくる。あの若者も、今は蒼の一番弟子になっていた。

ある朝、蒼は一人で窯に火を入れながら、亡き妻のことを思った。陽子がいなくなった日も、窯が壊れた日も、廃業届を前にした日も——あの時すでに、今日はここにあったのだと、今ならわかる。

道は、歩く前から敷かれていたのではない。歩くたびに、天が敷いてくれていたのだ。

感謝を忘れなければ、現象は変わる。人事を尽くせば、天命が下りてくる。しかし本当の意味での「人事を尽くす」とは——我欲を手放して、ただ誠実に、目の前の土と向き合い続けることだったのかもしれない。

蒼は炎を見つめながら、かつて静江から聞いた言葉を思い出した。あの日、別れ際に彼女が静かに言ったひとこと。

「天の意志は、人の手を借りて形になります。あなたの手は、ずっとそのために生まれてきたのですよ」

炎が揺れた。

湖の方角から、風が吹いてきた。花でも、葉でも、雪でもない風。ただ透明な、名前のない風。

蒼はそれを胸いっぱいに吸い込んだ。


天命が下りると 信じて進む道

現象が変わる時 感謝を忘れない

人事天命とは 天の意志を知る

無私無欲の心 天に通ずる鍵


窯の中で、土が変わっていく音がした。それは、蒼にはいつも、天が微笑む音のように聞こえた。

エピローグ

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