見えない丘の向こうへ
見えない丘の向こうへ
第一章 灰色の朝
目が覚めると、カーテンの隙間から差し込む光さえも、翔太には重かった。
三十二歳。システムエンジニアとして中堅の企業に勤めて八年。昨夜もまた、画面の前で十二時間を費やし、それでも終わらなかったプロジェクトの残骸がノートパソコンの中に眠っている。
「また今日も同じだ」
ベッドの縁に腰かけ、松田翔太はつぶやいた。コーヒーメーカーがぐるぐると唸りはじめる音が、台所から聞こえてくる。その音さえもルーティンで、予測可能で、生きているという感じがしない。
三ヶ月前、翔太は「今年こそマラソンを完走する」という目標を立てた。手帳に書いた。スマートフォンにアプリを入れた。ランニングシューズも新調した。しかし一週間で膝が痛くなり、二週間で雨を言い訳に走るのをやめ、今では玄関の隅にシューズが埃をかぶっている。
その前は英語学習だった。その前はギターだった。その前は——。
「どうせまた続かない」
翔太はスマートフォンを手に取り、SNSを開いた。友人の投稿が流れていく。海外旅行、昇進の報告、結婚式の写真。皆がどこか遠い場所にいて、自分だけが同じ場所に立ち尽くしているような気がした。
アプリを閉じ、代わりに開いたのは、三年前に亡くなった祖父——松田清蔵の日記をスキャンしたPDFだった。整理のために開いたまま忘れていたファイルだ。
ページを繰ると、ある一節が目に飛び込んだ。
「山を登りたいなら、まず一歩を踏み出すことだ。頂上の景色を考えるより先に、足元の石を見ろ。景色は、歩いた者にだけ見せてくれる」
翔太は、その言葉を三度、声に出して読んだ。
第二章 一歩と、もう一歩
その週末、翔太は久しぶりにランニングシューズを手に取った。
「どうせ続かない」という声が頭の中でした。しかし今度は、その声に反論せず、ただシューズの紐を結んだ。
目標は立てなかった。距離も、タイムも、決めなかった。ただ、玄関のドアを開けて外に出ることだけを決めた。
秋の朝の空気は冷たく、住宅街の路地には銀杏の葉が舞っていた。走ったのは、たった十五分だった。膝が痛くなる前に引き返した。息も上がった。体が鈍っているのが手に取るようにわかった。
「こんなもんか」
でも——帰り道、近所の公園を通り抜けたとき、朝露に濡れた蜘蛛の巣が光を受けてきらきらと輝いているのが見えた。毎日この道を通っているのに、今まで一度も気づかなかった。
翔太は立ち止まり、しばらくその光の網を見つめた。
歩いた者にだけ、景色は見せてくれる。
祖父の言葉が蘇った。
次の週末も走った。その次も走った。雨の日は傘をさして歩いた。十五分が二十分になり、二十分が三十分になった。目標を立てなかったから、達成できなくて落ち込むこともなかった。ただ、続けた。
ある朝、いつもより少し早く目が覚め、翔太は川沿いのコースを走った。まだ夜明け前で、東の空が藍色から橙色へと変わっていく瞬間だった。川面が色を映し、まるで空が二つあるようだった。
翔太は走るのをやめて、ベンチに座った。
「こんな景色、知らなかった」
声に出すと、なぜか涙が出てきた。悲しいわけではなかった。ただ——何かが緩んでいくような感覚だった。ずっと固く握りしめていた拳を、やっと開いたような。
第三章 俯瞰という恵み
十一月に入ったある夜、翔太は職場の後輩、二十五歳の木村あかりから相談を受けた。
「翔太さん、最近なんか変わりましたよね。なんか……柔らかくなったというか」
「そうか?」
「以前は、KPIとか目標数値とかすごく気にしてたじゃないですか。でも最近は、なんか違う感じで」
翔太は苦笑した。「俺、目標ばかり立てて、全部途中でやめてたんだよ。今は、目標を立てるのをやめてみてるんだ」
「えっ、それって……いいんですか?」
「わからない。でも、目標に追われてると、今目の前にあるものが見えなくなる気がして」
あかりは黙って考えてから、「実は私も、去年から勉強してることがあって、なかなか結果が出なくて、もう辞めようかと思ってるんです」と言った。
翔太は少し考えてから、こう言った。
「辞めてもいいかもしれない。でも辞める前に一回、少し遠くから自分を見てみてほしい。登山してるときみたいに、ちょっと高い場所から振り返ると、自分がどれだけ登ってきたかわかるから」
それは、祖父の日記の別の一節から学んだことだった。
「自分を褒めることが下手な人間は、自分を見る目が近すぎる。もっと遠くから、もっと優しく、自分という人間を眺めてみるといい」
翔太自身も、その言葉を実践しようとしていた。毎晩、今日一日を振り返る時間を五分だけ作るようにした。何ができたか、ではなく、何を感じたか。どんな景色を見たか。どんな一瞬に心が動いたか。
そうすると、以前は「何も達成できなかった一日」だったものが、「雨上がりの匂いが好きだとわかった一日」「後輩の笑顔を初めてちゃんと見た一日」「コーヒーを本当においしいと思えた一日」になっていった。
人生は、達成するものではなく、味わうものかもしれない——翔太は、そんなことを思いはじめていた。
第四章 嵐の中で
十二月、プロジェクトが炎上した。
クライアントの仕様変更が連続し、チームは疲弊し、翔太は連日深夜まで働いた。リリース前日、重大なバグが発見され、翔太は一晩中コードと向き合った。
「もう無理だ」と思った瞬間が、何度もあった。
しかし不思議なことに、以前のように投げやりな気持ちにはならなかった。「どうせ俺には無理だ」という言葉が、頭に浮かんでも、すぐに消えていった。
代わりに翔太の中にあったのは——今、ここにいるという感覚だった。
画面を見つめ、コードを読み、バグを追う。一つひとつの作業に、ただ向き合う。結果がどうなるかではなく、今この瞬間にできることを、ただやる。
夜明けの四時、バグを修正し、テストが通った瞬間、翔太は椅子の背もたれに体を預けて天井を見上げた。
疲れていた。でも——何かが胸の中で、静かに燃えていた。
会社のビルの窓から外を見ると、東の空がほんのりと白みはじめていた。三ヶ月前、川沿いで見たのと同じ色だった。しかし今度は、それが当然のようにそこにあった。美しいと思う前に、ただそこにあることが、翔太には十分だった。
苦難の中にも、景色はあった。
もがきながらも前に進んでいれば、見えてくる景色があった。それは頂上に立ったときの雄大な眺めではなく、足元の石の形であったり、岩肌に咲く小さな花であったり、自分の息が白く広がっていく様子だったりした。
翔太は、そういう景色を、少しずつ、集めていた。
エピローグ 見えない丘の向こうへ
翌年の春、翔太は初めてのハーフマラソンを完走した。
タイムは遅かった。順位は下から数えたほうが早かった。それでも、ゴールを越えた瞬間、翔太の目には涙が浮かんでいた。
隣には、あかりがいた。彼女は翔太に背中を押され、途中で諦めかけていた資格試験の勉強を続け、先月、合格通知を受け取っていた。
「翔太さん、あのとき言ってたこと、今ならわかります。高いところから自分を見るって、どういうことか」
「うん」
「以前の私って、結果しか見えてなかったんです。でも今は、ちゃんと走ってる自分が見えるというか……」
翔太は微笑んだ。
ゴール後の公園で、二人は缶のスポーツドリンクを飲みながら、遠くの丘を眺めた。桜がまだ少し残っていて、風が吹くたびに花びらが舞った。
「おじいちゃん、ありがとう」
翔太は心の中で、そっとつぶやいた。
努力しなければ、見えない景色がある。
「つらくなるだけ」と決めつけずに進んだとき、道は開ける。
目標を追いかける自分を少し遠くから見つめると、本当に大切なものが見えてくる。
そして、苦難を乗り越えた先に待っているのは、誰かに与えられた成功ではなく、自分の足で、自分の時間をかけて、自分だけが感じられる——光だった。
丘の向こうには、まだ見ぬ景色がある。
それを知っているだけで、今日も一歩、踏み出せる。
味わうべきは成長、苦難乗り越え掴む光
アマリエの物語の続きがここに
あなたの魂の物語を生きる