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泥の中に咲く

泥の中に咲く

泥の中に咲く

第一章 魂の選んだ場所

花が記憶している最も古い景色は、台所の床だった。

冷たいリノリウムの上に膝をついて、母が倒したワインボトルのかけらを、幼い手で拾い集めていた。夜の十時過ぎ。小学三年生の自分が、なぜか泣かずに、ただ黙々と、ガラスの破片を新聞紙にくるんでいた。

母は壁にもたれて、虚ろな目で天井を見上げていた。

「ごめんね、花」

それだけ言って、また目を閉じた。

緒方花は、静岡県の小さな港町で育った。父は花が五歳の時に家を出て、それきり戻らなかった。母の千秋は美しい人だったが、夫が去ってから少しずつ酒に溺れていった。月に一度か二度、激しく酔った母が鍋をひっくり返したり、壁を叩いたりする夜があった。花はそのたびに、押し入れの布団の中で縮こまりながら、嵐が過ぎ去るのを待った。

学校では「お母さんの匂いがする」とからかわれた日もあった。だから花は、誰にも心を開かなかった。笑顔だけは上手に作れるようになった。作り物の笑顔は、鎧のようなものだった。

それでも花は、不思議と絶望しなかった。

台所の窓から見える狭い空に、星が出ている夜には、なぜかこう感じることがあった。——これは、自分が選んだことなのかもしれない、と。

理由はわからない。根拠もない。ただ、胸の奥のどこかにある静かな場所が、そうつぶやくのだった。この家に、この母のもとに生まれたことは、偶然ではない。何かを学ぶために、ここに来たのだと。

その感覚が何を意味するのか、十歳の花には理解できなかった。


第二章 水の濁り

高校を卒業した春、花は東京に出た。

美容師の専門学校に入学し、昼は授業、夜は居酒屋でアルバイト。仕送りは期待できなかったし、期待しなかった。シェアハウスの六畳の部屋は、壁が薄くて隣の声が筒抜けだったけれど、それでも自分だけの場所があることが嬉しかった。

専門学校を卒業し、渋谷の小さなサロンに就職した。

仕事は好きだった。お客様の髪に触れ、その人の表情が変わっていく瞬間が、たまらなく好きだった。でも職場の空気は重かった。オーナーは気まぐれで、機嫌が悪い日には理由もなくスタッフを怒鳴りつけた。先輩の一人は露骨に花を無視し、技術を教えようとしなかった。三年目に入ったころ、同期のほとんどが辞めていった。

「花ちゃんも、もう限界じゃない?」

辞めた同期の麻衣が、居酒屋で言った。

「うん、しんどいよ」花は正直に答えた。「でも、まだいる」

「なんで? あんなところ」

花は少し考えて、言った。

「まだ、もらってないものがある気がして」

麻衣は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。

その夜、アパートに帰ってシャワーを浴びながら、花は泣いた。しんどかった。本当にしんどかった。でも涙の奥に、あの子どものころの感覚があった。——この濁りの中に、何かがある。

そう思えるのは、あの台所のおかげかもしれなかった。


第三章 根を張る

転機は、一人の客との出会いだった。

五十代後半の女性で、名前は吉田澄子といった。毎月決まった日に来て、いつも花が担当した。白髪が多く、顔には深い皺が刻まれていたが、目だけは不思議なほど澄んでいた。

ある日、カラーリングの施術中に、澄子が言った。

「花さん、疲れてる顔してるわね」

「そうですか? すみません」

「謝らなくていい。そうやって気を張って生きてきたんでしょう」

図星だった。花は手を止めそうになって、こらえた。

「……子どものころから、そうだったかもしれません」

「そう」澄子は静かに笑った。「魂は、鍛える必要のある場所を選ぶのよ。楽な場所じゃなくて、ちゃんと砥石のような場所を」

「砥石、ですか」

「刃物は柔らかいものに当てても研げないでしょう。硬い石に当ててこそ、刃が出る。あなたが選んできたものはね、全部、あなたの刃を出すためのものだったんじゃないかしら」

花の手が、止まった。

澄子は続けた。

「蓮の花を知ってる? あれは泥の中でしか咲かないの。きれいな水じゃ育たない。泥が深ければ深いほど、花は大きく、美しく咲く。あなたが育ってきた場所の泥は、どれくらい深かった?」

花は、答えられなかった。

代わりに、目から涙がこぼれた。お客様の前で泣くことなど、この仕事を始めて一度もなかったのに。

「ごめんなさい」

「謝らないで」澄子はそっと花の手に触れた。「ちゃんと咲いてるじゃない。あなたは今、ちゃんと咲いてる」


第四章 開花

挿絵

三十二歳の秋、花は独立した。

といっても大きなサロンではない。住宅街の一角、マンションの一室を改装した、六席だけの小さな店だった。名前は「花水木」にした。母が好きだった木だ。

オープンから半年、経営は苦しかった。客は来る日も来ない日もあった。ローンの支払いに頭を抱える夜もあった。それでも花は、一人ひとりの客に、全力を尽くした。

ある日、若い女性が予約なしで飛び込んできた。泣き腫らした目で、髪はぼさぼさで、「どうにかしてください」と言った。

話を聞くと、職場でひどいパワハラを受け、昨日やっと退職してきたという。

花は椅子に座らせ、ゆっくりシャンプーを始めた。

「大変だったね」

「……なんで、こんな目に遭うんだろうって、ずっと思ってました」

「うん」

「意味があるんですかね。こんなこと」

花の手が、髪の上を静かに動いた。

「あると思う」花は言った。「今はわからなくても、絶対にある。私も長いこと、わからなかったけど」

「花水木さんも、そういう経験があるんですか?」

「ある」

それだけ言って、花は丁寧に髪を洗った。そのお客様は鏡の前で、仕上がりを見て、また泣いた。でも今度は、少し違う顔で泣いていた。

花はそれを見て、胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。

自分が通ってきた泥の深さが、今、この人の役に立っている。

あの台所の床が、あの壁越しに聞いた母の泣き声が、あのサロンでの理不尽が、全部——全部、今につながっている。


第五章 母と蓮

翌年の春、花は静岡に帰った。

母は変わっていた。六十を過ぎて、酒はほとんど飲まなくなっていた。体を壊しかけたのをきっかけに、近所の支援グループに通い始めたらしい。台所は片付いていて、小さなプランターにパンジーが咲いていた。

「きれいになったね、台所」

「……恥ずかしいわね、今さら」千秋は目を伏せた。

「ううん」花は言った。「ありがとう、お母さん」

「何が?」

「ここで育ててくれて」

千秋は顔を上げた。目が赤くなっていた。

「何も、してあげられなかったのに」

「してくれてた」

花は、嘘をついているのではなかった。本当にそう思えるようになっていた。あの夜々があったから、今の自分がいる。あの濁りの中で、自分の根は張られていた。

庭の端に、小さな水鉢があった。千秋が最近始めた、蓮の水栽培だという。まだ芽は出ていなかったが、泥の中の球根は、もう次の春の準備をしているはずだった。

花はそれを見つめながら、あの澄子の言葉を思い出した。

——泥が深ければ深いほど、花は大きく、美しく咲く。


エピローグ

花水木の窓から、今日も空が見える。

六席の椅子は、今日もほぼ埋まっている。常連さんの顔、初めて来た人の緊張した横顔。花はその一人ひとりに、手を当てる。

人はみな、それぞれの泥の中から来ている。

傷を持たない人などいない。誰もがそれぞれの台所の床から立ち上がってきた人たちだ。

花は時々、不思議に思う。なぜ自分は、あの家を選んで生まれてきたのだろう、と。でもその問いは、もう苦しさを伴わない。むしろ、深く静かな確信として、胸に宿っている。

——魂は、自分が育つための場所を、ちゃんと知っている。

精一杯生きることをやめなかったから、今ここにいる。

汚れた水を飲みながら、それでも根を張り続けたから、今ここにいる。

苦難を越えた先に待っていたのは、誰かの笑顔だった。それが、自分の花の形だったと、今ならわかる。

鏡の中のお客様が微笑む。花も微笑む。

窓の外、五月の光の中で、どこかの庭の蓮が、泥の底からゆっくりと、茎を伸ばしている。

魂が選んだ 環境こそ学びの場 精一杯生きる ことで花は開花する 水の汚れこそ 成長の糧となるだろう 苦難を乗り越え 美しさを手に入れる

エピローグ

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ソウルミッション358

あなたの魂の物語を生きる