今日も、ここにいる

今日も、ここにいる
第一章 灰色の朝
東京の夜明けは、咲にとって敵だった。
田中咲、三十二歳。都内の広告代理店に勤めて十年。毎朝六時に鳴るアラームを三回止め、四回目にようやく体を起こす。鏡に映る顔は、どこかぼんやりとして、まるで自分のものではないように見えた。
「また今日も、か」
呟く声に感情はなかった。朝食を食べる時間も惜しく、コンビニのおにぎりを片手に満員電車に乗り込む。隣の人の肩にぶつかっても謝る気力もない。会社に着けばデスクに積まれた書類、鳴り止まない電話、終わらない修正依頼。
生きているのに、生きている実感がなかった。
「咲さん、また残業ですか」と後輩の梓が声をかけてくる。
「そうしないと終わらないから」と、それだけ答えて画面に向き直る。
帰宅は深夜。シャワーを浴びてベッドに倒れ込む。眠れない夜が続いていた。目を閉じても頭の中をタスクリストが駆け巡り、体は疲れているのに意識だけが浮かんでいる。睡眠薬を飲み始めたのは、去年の秋からだった。
ある火曜日の朝、咲はオフィスのトイレで倒れた。
気がつくと、白い天井があった。
第二章 静寂の中で
病院のベッドは、思ったより柔らかかった。
過労による自律神経の乱れ、と医師は言った。「二週間は入院してください。仕事のことは忘れなさい」という言葉に、咲は反射的に「でも——」と口を開いたが、担当医の静かな目に遮られた。
「田中さん、あなたの体はもう限界だと言っています。体の声を、聞いてあげてください」
病室は四人部屋だった。窓際のベッドには、七歳くらいの女の子が寝ていた。名前は、ひかり。
ひかりちゃんは先天性の心臓病を持っており、定期的に入院を繰り返しているのだと、後から母親に教えてもらった。生まれた時から、手術と治療の連続だという。
初めて目が合った時、ひかりちゃんは満面の笑みで言った。
「おねえさん、お花、好きですか?」
ベッドの脇の小さな花瓶に、黄色い小菊が一輪挿してあった。
「……好きよ」と、咲は少し戸惑いながら答えた。
「よかった! 私もなの。お母さんが毎日持ってきてくれるの。今日のはね、病院の入口に咲いてたやつ」
「そうなんだ」
「きれいでしょ? 生きてるって、すごいよね」
七歳の子供が言うには、あまりに深い言葉だった。咲はうまく返事ができなかった。
第三章 ひかりちゃんの宇宙
入院三日目、咲は初めてゆっくり眠れた。
薬なしで、朝まで。
目が覚めた時、窓の外から朝の光が差し込んでいた。その光が埃をきらきらと照らしているのを、咲はいつまでも見ていた。こんなに光が美しいと思ったのは、いつぶりだろう。あるいは、初めてかもしれない。
「おねえさん、起きた!」ひかりちゃんの声。
「うん、起きた」
「よく眠れた?」
「……うん、すごくよく眠れた」
「よかった! 眠れるって、幸せだよね」
咲は胸をつかれたような気がした。幸せ。その言葉が、こんなに自然に出てくる子供が、心臓に病気を抱えて何度も手術を受けて、それでも笑っている。
「ひかりちゃんは、怖くないの?」咲は聞いた。「病院とか、手術とか」
ひかりちゃんはしばらく考えてから言った。
「怖いよ。でもね、お母さんが言ってたの。私が生まれてきたのは奇跡なんだって。先生たちがびっくりするくらいの奇跡なんだって。だから私、その奇跡に恥ずかしくないように生きなきゃって思ってるの」
「奇跡に、恥ずかしくないように」
「うん。怖くても、ちゃんと生きるの。だって、生まれてこれたんだもん」
咲の目から、気がつくと涙がこぼれていた。声を出さないように唇をかんで、天井を見つめた。
あなたはどうだ、と誰かに問われている気がした。
生まれてきた、その奇跡に——自分は、ちゃんと向き合えているか?
第四章 命の重さを知る朝
入院一週間が過ぎた頃、咲は日記を書き始めた。

最初の一行は、こうだった。
今日、眠れた。ありがとう。
書いてみると、妙に胸が温かくなった。眠れたことに感謝するなんて、馬鹿みたいだと思っていた。でも今は違う。眠れること、起きられること、食事ができること、呼吸ができること——それらすべてが、当たり前ではないと、体の芯から感じていた。
入院前の自分は、命を消費していた。仕事のため、締め切りのため、他人の評価のために、自分の体を削り続けていた。体の声を無視し、魂の声を無視し、ただ歯車のように回り続けた。
でも体は正直だった。限界です、と倒れることで教えてくれた。
「これ、おねえさんに」
ひかりちゃんが折り紙で折った小さな鶴を、咲に手渡してくれた。赤と金の、丁寧に折られた鶴。
「ありがとう。上手ね」
「お見舞い。早く元気になってね」
咲はその鶴を両手で受け取り、目を閉じた。
不思議なことが起きた。胸の奥、みぞおちのあたりから、じんわりと温かいものが広がってきた。それはやがて手の先、足の先まで流れていき、咲はこれまで感じたことのない感覚に包まれた。
これが、感謝というものなのか。
頭で理解するのではなく、体全体で、魂で感じる感謝。
生まれてきたこと。今ここに存在すること。呼吸していること。誰かに折り鶴をもらえること。その一つひとつが、気の遠くなるほどの奇跡の連なりの上にある。
宇宙が始まって百三十八億年。地球が生まれて四十六億年。その果てに、この瞬間、ここに自分がいる。
私は、奇跡の塊だ。
その言葉が、どこからともなく浮かんできた。
咲は泣いた。今度は声を抑えなかった。静かに、深く、洗われるように泣いた。
第五章 退院の朝、窓の外
二週間後、咲は退院した。
退院の朝、ひかりちゃんはまだ入院中だったが、病室の入口まで見送りに来てくれた。点滴のスタンドを引きながら、小さな手を精いっぱい振ってくれた。
「また会いにきてね!」
「絶対来るよ」と咲は約束した。
病院の玄関を出ると、五月の風が吹いていた。
空の青さに、思わず足が止まった。
あんなに青かっただろうか、空は。あんなに風は気持ちよかっただろうか。あんなに緑は鮮やかだっただろうか。植え込みの小さな花に、名も知らぬ蝶が止まっては飛んでいく。
咲はしばらくそこに立ち、ただ呼吸をしていた。
空気が肺に満ちていく感覚。それだけで胸が満たされた。
スマートフォンには、百件を超えるメッセージが溜まっていた。会社からのもの、友人からのもの。以前の自分なら、すぐに確認して対応しようと焦っていただろう。でも今は——もう少しだけ、この空気を感じていたかった。
一件だけ確認すると、後輩の梓からのメッセージだった。
「咲さん、大丈夫ですか。ゆっくり休んでください。チームのこと、私たちに任せてください」
咲は微笑んだ。
世界は、思っていたよりずっと優しかった。
エピローグ 感謝の念、忘れずに
それから半年が経った。
咲の生活は変わった。朝、アラームが鳴る前に目が覚める日が増えた。起き上がり、カーテンを開けて、空の色を確かめる。曇りの日も、雨の日も、それぞれに美しい。
仕事は続けているが、定時に上がれる日は帰る。眠れることに感謝して、眠る前に一行だけ日記を書く。今日の小さな「ありがとう」を、一つだけ書き留める。
ひかりちゃんとは今も会っている。先月、三回目の手術を終えた彼女は、病室で元気に折り紙を折っていた。「おねえさん、今日は何色にする?」と聞きながら。
人は生まれてくるだけで、すでに奇跡だと咲は思う。
星が爆発し、元素が生まれ、海に生命が芽吹き、長い長い時間をかけて進化し、無数の出会いと別れを経て、ここに自分という存在が生まれた。この身体が今日も動いていること、空気を吸えること、誰かの笑顔を見られること——それらすべてが、宇宙の奇跡の積み重ねだ。
だから感謝する。
眠れることに。起きられることに。今日もここにいられることに。
咲は今朝も、窓の外の空を見上げる。
風が吹いている。どこか遠くから、光を運んでくるような、優しい風が。
———
生まれて来た奇跡に、感謝込めて、日々を歩む。 有難い、全ての恵みに、感謝の念、忘れずに生きる。
その言葉が今日も、咲の胸の中で、静かに灯台のように光り続けている。

アマリエの物語の続きがここに
あなたの魂の物語を生きる