天上天下、ただひとつの光

天上天下、ただひとつの光
第一章 波打ち際の男
十一月の日本海は、怒りを忘れた老人のように静かだった。
桐島誠は、砂浜に立ったまま、靴の中に砂が入るのも気にせず、ただ水平線を見つめていた。五十二歳。かつては大手電機メーカーの部長だった男が、今は手にコンビニのコーヒーカップを持ち、行き場のない午後を過ごしている。
リストラから三年。離婚から二年。先月、母が逝った。
葬儀を終え、遺品を整理し、実家の鍵を不動産屋に渡した帰り道、誠はなぜかこの海岸に足を向けていた。母が生まれ育った石川県の小さな漁村。子供の頃、夏休みに何度か連れて来てもらったことがある。記憶の中の海は、もっと青く、もっと広かった。
「俺はなんのために生きてきたんだろう」
声に出してみると、言葉は波の音にあっけなく飲み込まれた。誰も聞いていない。誰も答えない。五十二年間積み上げてきたものが、砂の城のように崩れた後に残ったのは、この空虚な問いだけだった。
会社での実績。部下への指導。家族のために働いた年月。それらはすべて、他の誰かの物語の中での役割にすぎなかったのではないか。自分自身の意味など、最初から存在しなかったのではないか。
コーヒーはとっくに冷めていた。
その時、背後から声がした。
「あんた、その顔は海に謝ってもらわんといかんね」
振り返ると、砂浜に不似合いな車椅子が一台、そして押している若い介護士の女性。そして車椅子に座っているのは、小柄な老婆だった。九十歳に近いであろう年齢を感じさせながらも、目だけは異様に澄んでいた。
第二章 田中ハルという人
老婆の名は田中ハルといった。
「海を見に来たんです。もう長くないから」
介護士の女性——名札に「西田」とあった——が困ったように笑いながら説明してくれた。ハルは海沿いの介護施設に入居しており、今日は本人の強い希望で散歩に来たのだという。
「死ぬ前に日本海を見たいって、朝から言い張って聞かなくて」
「当たり前やろ。生まれた時からずっとこの海を見てきたんや。死ぬ前にも見たい」
ハルは悪びれる様子もなく言った。その声は小さいが、芯が通っていた。
誠はなんとなく立ち去り難くなり、三人で並んで海を見た。奇妙な時間だった。見知らぬ老婆と、見知らぬ介護士と、行き場のない中年男。だが波の音が、その不釣り合いな三人をひとつの景色に溶かし込んだ。
「あんた、誰かを亡くしたね」
ハルが言った。誠は驚いて老婆の顔を見た。
「母が、先週」
「そうか。辛かったね」
それだけだった。余計な慰めも、宗教的な言葉も、決まり文句も、何もなかった。ただ「辛かったね」という三文字が、波のように胸に打ち寄せてきた。誠の目の奥が、急に熱くなった。
「施設に来んか。お茶でも飲もう」
そうしてなぜか誠は、老婆の後についていった。
第三章 天上天下
施設の窓際の席で、ハルはお茶を両手で包むように持ちながら、誠の話を聞いた。仕事を失ったこと。妻が去ったこと。子供たちとの疎遠。そして母の死。誠は自分でも驚くほど、すらすらと語った。見ず知らずの老婆だからこそ、話せたのかもしれない。
「俺は何者でもなくなったんです。会社員でもなく、夫でもなく、息子でもなく。もう誰の役にも立たない」
ハルは静かに聞いていた。お茶を一口飲んで、窓の外を見た。
「天上天下唯我独尊って、知っとる?」
「お釈迦様が生まれた時に言った言葉ですよね。この世で私が一番尊い、という」
「違う違う」
ハルは首を振った。笑っているようでも、叱っているようでもない表情だった。
「そう訳す人も多いけどね、私はそう思わん。天上にも天下にも、ただ一つの、唯一の、かけがえのない存在——それが「我」やと思う。上でも下でも、どこを探しても、あんたはあんたしかおらん。それが「尊い」ということや」
誠は黙った。
「あんたが部長であることが、あんたの価値やないんよ。あんたが夫であることも、息子であることも、ちがう。そういう役割が全部なくなった後に、それでも残るもの——それがあんた本来の姿や。魂というかね、光というかね、うまく言えんけど」
老婆の言葉は、難しくなかった。むしろ、驚くほど単純だった。
「私もね、戦争で夫を亡くして、子供を一人亡くして、仕事もして、年を取って、病気になって、今は体もまともに動かん。何もできんようになった。でもね」
ハルは自分の胸の真ん中を、ゆっくりと指で押さえた。
「ここだけは変わらん。八十九年前にこの世に生まれた時から、ずっとここに、私がおる。役に立たんくなっても、誰かに必要とされんくなっても、この私という光だけは、ずっとここにあった」
誠は何も言えなかった。
「あんたも同じや。会社も、家庭も、なくなっても。あんたという光は消えとらん。ちゃんとそこにある」
西日が窓から差し込んで、ハルの白い髪を金色に染めた。誠はその瞬間、この老婆の周りだけ空気が違うように感じた。言葉にならない何かが、確かにそこにあった。
第四章 生分已尽きても
それから誠は、三日間その村に留まった。
毎日施設を訪ね、ハルとお茶を飲んだ。ハルは時に昔話をし、時に眠り、時に誠に問いを投げた。「あんたが子供の頃、一番好きだったものは何?」「生まれてきて、良かったと思った瞬間は?」「誰かに感謝されたことで、一番覚えているのは何?」

誠はそれらの問いに答えるうちに、自分の中に埋もれていたものを少しずつ掘り起こしていった。入社一年目に先輩に教えてもらった設計図の面白さ。娘が初めて歩いた日の、言葉にならない喜び。プロジェクトが成功した夜、チームみんなで食べたラーメンの味。
「役割じゃない、本物の自分の記憶」とハルは言った。「それを大切にしなさい。それがあんたの光の歴史や」
三日目の朝、西田から電話が来た。ハルの容態が急変したという。
急いで施設に向かうと、ハルはベッドで静かに横たわっていた。すでに意識は薄れており、呼吸は浅かった。枯れ枝のように細い手が、シーツの上に置かれていた。
誠はその手を、そっと握った。
ハルの唇が、かすかに動いた。
「……往生するわ」
その言葉は、恐れでも諦めでもなかった。まるで長い旅の終わりに「そろそろ帰るわ」と言うような、穏やかな声だった。
「また、別の道で」
それがハルの最後の言葉だった。
その日の夕方、田中ハルは八十九年の生を終えた。
誠は施設の廊下で一人、壁に背を預けて目を閉じた。涙が出るかと思ったが、不思議と出なかった。代わりに、胸の奥の方で、何かが静かに動いた。
光のような何か。
第五章 新たな道
翌日、誠は東京へ帰る前に、もう一度海岸へ行った。
昨日までの波が嘘のように、日本海は穏やかだった。薄い雲の間から冬の陽が差し、水面がきらきらと光っている。
誠はポケットから、一枚の紙を出した。西田から渡されたもの——ハルが施設のスタッフに「この人に渡して」と以前から言っていたという、古い便箋だった。
達筆で、短い言葉が書いてあった。
天上天下に問うてみなさい。 あなたはあなたしかいない。 それだけで、十分に尊い。
誠は紙を折って、胸ポケットに入れた。
五十二年間、誠は誰かのために生きてきた。会社のために、家族のために、世間体のために。それ自体は悪いことではなかったかもしれない。だが、その底に流れていたのは、常に「役に立たなければ、存在できない」という恐れだった。
役に立たなくなったら、消えてしまうような気がしていた。
だが、ハルは違った。八十九年の果てに、何も持たずに、何もできなくなっても、あの光は消えなかった。むしろ最後の最後に、最も澄み切っていた。
生分已尽きても、輝きは失せない。
誠はそのことを、頭ではなく、胸で理解した。
波が足元まで来て、引いていった。砂浜に模様を描いて、消えて、また来る。
誠はスマートフォンを取り出し、長い間放置していたアドレス帳を開いた。娘の名前を探し、電話をかけた。数回のコールの後、懐かしい声が聞こえた。
「……お父さん?」
驚きと、戸惑いと、もしかしたら少しの温かさが混じった声。誠は深く息を吸い込んだ。
「元気か。久しぶりに、会えないかな」
それだけ言うのに、なぜこんなに長くかかったのだろう。
電話を切った後、誠は海を見た。水平線の向こうに、何があるかは見えない。だが確かなのは、この海は続いているということだ。ハルが往生した先にも、きっとこの光は続いている。そして誠自身の先にも、まだ知らない道が開いている。
エピローグ
それから半年が過ぎた。
桐島誠は今、小さなNPOで働いている。中高年の再就職支援をする団体だ。給料は以前の三分の一にも満たない。だが、毎週面談室で向き合う人々の顔に、かつての自分を見る。
「役立たずになった」と俯く人。「もう誰にも必要とされない」と震える人。
誠はそんな時、胸ポケットから古い便箋を取り出す。
あなたはあなたしかいない。それだけで、十分に尊い。
そして言う。「天上天下を見渡しても、あなたはあなた一人きりです。それがどれほど希有なことか、少し考えてみてください」
答えはいつも、すぐには出ない。
だがその問いを胸に抱えた人は、どこかが変わる。顔が、少し柔らかくなる。
誠は知っている。あの老婆が自分に渡してくれた問いを、今度は自分が誰かに渡す番だということを。光は、手から手へ、魂から魂へ、往生の先でも消えることなく渡されていく。
天上天下に問えばいい。
ここにいる、この私とは、何者か。
その問い自体が、すでに答えだ。
なぜなら、問える者だけが存在し、存在する者だけが問えるのだから。
唯我独尊——ただ一つの、かけがえのない光。
それが、あなたという存在の、名前だ。
今茲而往生の先、新たな道が開く。

アマリエの物語の続きがここに
あなたの魂の物語を生きる