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必要な分だけ、与えられている

必要な分だけ、与えられている

必要な分だけ、与えられている


第一章 空白のオフィス

東京、渋谷。

午前二時を過ぎたオフィスに、藤原健人の打鍵音だけが響いていた。

三十八歳。IT系スタートアップの営業部長。去年の売上は業界三位。今年こそ一位を取る——そう誓ってから、もう九ヶ月が経っていた。

「くそ……」

画面に並ぶ競合他社の数字を見て、健人は舌打ちをした。ライバル会社のMシステムズが、先週また大型契約を取った。顧客を横取りされたのは、これで三度目だ。

健人のデスクには、三冊のノートが積まれていた。すべてに書かれているのは、同じ言葉だ。

「奪え。先手を打て。勝者が総取りする」

それが彼の信条だった。大学時代、師と仰いだ先輩から教わった言葉。社会とは競争であり、慈悲は弱者の言い訳だ、と。

スマートフォンが震えた。妻の美紀からだ。

「健人、帰ってくる? 遥花がお父さんに会いたいって……」

七歳の娘の顔が、一瞬だけ脳裏に浮かんだ。すぐに消えた。

「もう少し待ってくれ。大事な局面なんだ」

通話を切ると、健人は再びモニターに向き直った。窓の外、渋谷の街は眠らずに光り続けている。その光の向こうで、誰かが泣いていることなど、彼は考えもしなかった。


第二章 ウイルスの季節

異変は、秋の終わりに来た。

社内に原因不明の倦怠感が広まり始めた。健人も例外ではなかった。朝、布団から体を引き剥がすのに、かつての三倍の意志力が必要になった。医者に行けば「過労です」と言われ、薬を渡された。飲んでも治らなかった。

そのころ、ニュースでは毎日のように新しい感染症の話題が流れていた。国境を超えて広がるウイルス。医療崩壊。マスクの奪い合い。

「備蓄を増やせ。うちの会社の分は確保しろ」

健人は部下にそう命じた。他社が困っていようと関係ない。自分たちが生き残ることが最優先だ——そう思っていた。

転機は、十一月のある木曜日だった。

客先への訪問途中、健人は代々木公園のそばで急に目眩を覚え、ベンチに倒れ込んだ。次の瞬間には、見知らぬ老人が隣に座っていた。

白髪で、深いしわが刻まれた顔。だが目だけが、奇妙なほど若々しく光っていた。

「大丈夫かね」

「……少し休めば」

「そうか」と老人は言い、空を見上げた。「最近、みんな倒れているな。体だけじゃなく、心もな」

健人は返事をしなかった。

「あんたは何を取ろうとしているんだ」

唐突な問いだった。健人は眉をひそめた。

「仕事ですよ。一位を取りたいんです」

「取る、か」

老人はしばらく黙っていた。公園の木々が風に揺れ、黄色い葉が二人の間を舞った。

「宇宙はな」と老人はゆっくり言った。「奪い合う者に、必要以上は与えない。それが法則だよ。知っているかね」

健人は笑おうとしたが、笑えなかった。なぜか、その言葉が胸の奥に刺さった。

老人が立ち上がろうとした瞬間、健人は思わず声をかけた。

「……どういう意味ですか」

老人は振り返り、穏やかに微笑んだ。

「必要なものは、必要な時に与えられる。ただし、それはあんたが握りしめている拳を開いた時だけだ」

そう言い残して、老人は公園の木立の向こうへ消えた。


第三章 娘の問い

その夜、珍しく早く帰宅した健人を、遥花は玄関で待っていた。

「お父さん!」

抱き上げると、娘はぎゅっとしがみついた。健人は気づいた。この重さが、こんなに温かかったことを、いつから忘れていたのだろう。

夕食の後、遥花が絵を持ってきた。

「ねえ、見て。学校で描いたの」

クレヨンで描かれたその絵には、大きな木があった。木の根元に小さな子どもたちが集まり、みんなで実を分け合っている。

「これ、何の絵?」と健人は聞いた。

「豊かさの木。先生が言ったんだよ。本当に豊かな木は、実をたくさんつけるから、分けても分けても減らないんだって」

挿絵

健人は絵から目が離せなかった。

「でもね、お父さん、」と遥花は続けた。「お友達のコウちゃんがね、全部の実を自分で取ろうとしたの。そしたら木が倒れそうになっちゃって、結局ひとつも食べられなかったんだって」

七歳の子どもが話す、たとえ話。

しかし健人の胸に、何かが崩れる音がした。静かに、しかし確かに。

美紀がお茶を運んできた。健人はそれを受け取りながら、妻の顔をちゃんと見た。何ヶ月ぶりだろう。目の下に薄い影があった。彼女も、ずっと疲れていたのだ。

「……俺、何かを勘違いしていたかもしれない」

美紀は驚いた様子で夫を見た。健人は珍しく、続きを言えなかった。


第四章 開かれた手

翌朝、健人は同期の田中に電話した。

田中誠司。かつて親友だったが、三年前にMシステムズに転職してからは、互いに「敵」として沈黙していた。

「……健人? どうした、急に」

「少し話せないか。仕事の話じゃない」

沈黙の後、田中は「いいよ」と答えた。

昼、二人は渋谷のコーヒーショップで向かい合った。

「正直に言う」と健人は切り出した。「俺、ここ数年、お前のことを敵だと思っていた。でも……それって、おかしいよな。業界全体が萎縮したら、どっちも死ぬ」

田中は少し目を丸くし、それからゆっくり笑った。

「俺もだよ。毎日、お前の動きを監視してた。どうやって出し抜くか、それしか考えてなかった」

二人は笑い合った。その笑いが収まった後、なぜか胸が軽くなっていた。

「実はな」と田中が言った。「俺のところ、技術力はあるけど営業が弱い。お前のところは逆だろ。……協業できないか」

健人は即答しなかった。三年前なら、絶対に断っていた。しかし今、拳を開く感覚を、彼は知っていた。

「考えさせてくれ」と言いながら、健人はすでに答えを知っていた。


第五章 豊かさの木

それから半年が経った。

藤原健人の会社とMシステムズの協業プロジェクトは、業界誌に取り上げられた。「競争から共創へ——新しいビジネスモデルの誕生」という見出しで。

売上は、単純な数字で言えば、健人の会社単独よりも少ないかもしれない。しかし何かが変わっていた。

部下たちの顔が明るくなった。夜中まで残る者が減った。新しいアイデアが、会議で飛び出すようになった。

ある朝、健人はベランダで空を見上げながら、ふと気づいた。

自分が欲しかったのは「一位」という数字ではなかった。認められたかった。必要とされたかった。恐怖から逃げ出したかった。

そのすべてが、今、静かに満たされていた。

遥花の誕生日に、健人は仕事を早退した。夕暮れの公園で、娘と二人、ブランコを並んで漕いだ。

「お父さん、変わったね」と遥花が言った。

「そうか?」

「うん。前は怖い顔してたけど、今は普通の顔してる」

健人は笑った。普通の顔。それが、こんなに難しかったとは。

空に、一番星が瞬き始めていた。


エピローグ

代々木公園に、再びあの老人の姿はなかった。

しかし健人には、もうその声が聞こえる気がした。

風が吹くたびに、葉が舞うたびに、誰かが微笑むたびに——。

必要なものは与えられる。 ただし、拳を開いた時だけ。

競争して奪い合う愚かさに気づいた時、ウイルスも嵐も、実は人類への問いかけだったのかもしれない——「お前たちは、本当に何を求めているのか」 と。

大きく求める前に、心の豊かさを見つめること。

分かち合いの精神の中にこそ、調和があり、調和の中にこそ、真の平和がある。

藤原健人は今日も、朝、窓を開ける。

渋谷の街が、光の中に目を覚ます。

彼の手は、もう、開かれている。


「必要なものは与えられる——宇宙の法則は、静かに、しかし確かに、今日も働き続けている」

エピローグ

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