時空間の狭間で――母の声が聞こえた夜

時空間の狭間で――母の声が聞こえた夜
第一章 喪失の秋
十月の末、田中蒼は十七年ぶりに故郷の土を踏んだ。
東京で建築事務所を営む四十二歳の彼が、奈良の山あいにある生家に戻ったのは、母・澄子の四十九日の法要を終えた翌朝のことだった。葬儀も法要も、すべては滞りなく済んだ。弔問客は口々に「お母様は幸せな一生でしたね」と言った。蒼はそのたびに頭を下げ、ありがとうございますと繰り返した。
だが、泣けなかった。
会社の仕事、設計の締め切り、部下への指示——都会での生活に忙殺され続けた十七年間、蒼は盆と正月にも帰省をほとんどしなかった。電話は月に一度、いや、二ヶ月に一度だったかもしれない。母が入院したと知らされたのは、すでに余命が三ヶ月を切ってからだった。
空き家となった生家は、思ったより小さかった。
縁側に座り、柿の木が一本立つ庭を眺めていると、遠くの山々が夕暮れの橙色に染まっていた。枯れ葉が風に舞い、足元にひらりと落ちてきた。蒼はそれを拾い上げ、手のひらで転がした。
こんなに薄いのに、生きていたのだな。
その思いが、なぜか胸を締め付けた。
第二章 神社の老人
翌朝、蒼は山道を歩いた。特に行き先を決めていたわけではなかった。ただ、このまま東京に帰ることがどうしてもできなかった。
三十分ほど登ると、幼い頃に母に連れられてよく参拝した小さな神社が現れた。朱塗りの鳥居は色が褪せ、石段には苔が生えていたが、境内は丁寧に掃き清められていた。
箒を持った老人が一人、落ち葉を集めていた。
「おや、久しぶりだね」と老人は振り向きもせずに言った。「田中の澄子さんの息子さんだろう」
蒼は驚いて立ち止まった。「ご存知なんですか」
「この山で知らぬ顔はないよ」老人は箒を置き、蒼の方を向いた。深い皺が刻まれた顔だったが、目だけが子供のように澄んでいた。「島田という。昔からここの世話をしておる」
二人は本殿の傍らの縁台に腰を下ろし、老人が持ってきた茶を飲んだ。
「お母さんのこと、まだ受け入れられていないんだろう」老人は静かに言った。
蒼は黙っていた。否定する言葉が出てこなかった。
「人はな」と島田翁は続けた。「この世に来るとき、すでに帰る場所を知っておる。この世は旅だ。彼の世が本来の住処で、ここは仮の宿に過ぎない」
「……そんなふうに思えたら、楽なんでしょうけど」
「思うんじゃない。感じるんだよ」翁は空を見上げた。「ほら、今この瞬間を見てごらん。空間があるだろう。木があって、空があって、風が吹いておる。それを感じているのは誰だ」
「私、ですが」
「そうだ。身体を持ったあなたがおるから、この美しさが感じられる。身体を持つというのは、奇跡なんだよ」
蒼は空を見上げた。秋晴れの空は高く、刷毛で掃いたような雲が流れていた。時間が、ゆっくりと動いているように感じられた。
第三章 彼岸からの声
その夜、蒼は母の部屋で眠った。
布団は澄子が使っていたものだった。わずかに残る石鹸の香りが、子供の頃の記憶を呼び覚ました。受験の前夜、母が枕元に座って頭を撫でてくれたこと。失恋して帰省したとき、何も言わずに隣で眠ってくれたこと。
夢を見た。
あるいは夢ではなかったかもしれない。
暗闇の中に、光の層があった。薄い膜のようなものが、空間と空間の境に張られていた。蒼はその膜のこちら側に立ち、向こう側に人影があることに気づいた。
「お母さん」
声は出ないのに、伝わった。
澄子は笑っていた。蒼が覚えている、皺の深い、あの温かい笑顔だった。
言葉はなかった。ただ、温度があった。光があった。そして蒼の胸の中に、静かに流れ込んでくるものがあった。
ありがとう、と生まれてきてくれて。 ありがとう、と息をしてくれて。 ありがとう、と今もそこにいてくれて。
蒼は泣いていた。夢の中でも、頬に涙が伝うのを感じた。それは悲しみの涙ではなかった。うまく言葉にできないが、何か巨大なものに包まれているような、満ちてくるような感覚だった。
光の膜が揺らいだ。
澄子の姿が薄くなっていった。だが消えるのではなく、どこかに溶け込んでいくように感じられた。この空間そのものに、この夜の空気そのものに。
蒼はゆっくりと目を開けた。
部屋は暗く、窓の外に星が見えた。時計を見ると午前三時だった。しかし彼は不思議なほど清々しく、眠かった。もう一度目を閉じると、今度はただ穏やかな眠りが来た。

第四章 身体という奇跡
翌朝、蒼は夜明け前に起きた。
縁側に出ると、山の端がほんのりと白み始めていた。息をすると白く煙った。冷たい空気が肺の中に広がっていった。
ああ、生きているのだ。
当たり前のことが、当たり前でなく感じられた瞬間があった。
心臓が動いている。血が流れている。目が光を受け取り、耳が風の音を拾い、肌が朝の冷気を感じている。これだけのことが、ただ「存在する」だけで起きている。
蒼は自分の両手を見た。設計図を引いてきた手。母の手を最後に握れなかった手。後悔と、それでも確かに生きてきた証が、その掌に刻まれていた。
彼の世が主ならば、此の世は従だ。
島田翁の言葉が蘇った。この世界は、本来の場所への旅の途中だ。だとすれば、今ここにあることは、どれほど貴重な機会なのか。
蒼は十七年間、「いつかゆっくり話そう」と先送りにし続けた。母もきっと待ち続けた。しかし今、ここで悔やんでいる自分も、確かに命を使って生きている。母が育てた命が、この朝の冷気を吸い、涙をこぼし、悔やみ、感じている。
それもまた、母が与えてくれたものだった。
第五章 感謝の夜
夕方、蒼は再び神社に登った。
島田翁はまだ境内にいた。今日も落ち葉を集めていた。
「また来たか」
「来ました」蒼は頭を下げた。「昨夜、夢を見ました。母が笑っていました」
翁は微かに頷いた。「夢と現実の境も、あの膜と同じようなものだよ。本当は地続きなんだ」
「彼岸と此岸というのが、やっとわかった気がします。場所が違うのではなくて、重なり合っているんですね」
「そうだ」翁は空を見上げた。「時間だって同じだよ。瞬きの間に、ものすごい時が流れておる。だが人間は過去を悔やみ、未来を恐れて、今を生きることを忘れる」
蒼は空を見た。東の空に、最初の星が瞬き始めていた。
「今夜、感謝の祈りを捧げてみなさい」翁は静かに言った。「理由なんていらない。ただ、今ここにいることへの感謝だ。それだけで十分だよ」
蒼は本殿の前に立ち、手を合わせた。
形式的な言葉は出てこなかった。ただ、意識の中に浮かんでくるものがあった。
ありがとう、母さん。 産んでくれて。育ててくれて。 怒らせてしまって、泣かせてしまって、それでも愛してくれて。 今夜も、あの光の向こうから笑っていてくれて。
星が一つ、また一つと増えていった。
夜風が吹いた。枯れ葉が舞った。
蒼の頬に、温かいものが伝った。
今度は泣けた。
エピローグ
東京に戻った蒼は、事務所のデスクの引き出しに一枚の紙を入れた。
山道で拾った枯れ葉の形を鉛筆でなぞり、その横に、あの夜から頭を離れない言葉を書き留めたものだった。
彼の世が主ならば 此の世は従である
設計の仕事を続けながら、蒼は少しずつ変わっていった。打ち合わせの合間に窓の外を見て、空間があることを感じた。締め切りに追われながらも、今この瞬間にだけ存在することを意識した。月に一度ではなく、毎週、母の仏壇に手を合わせた。
人は必ず、元いた場所へ帰っていく。
だから、此の世にいる間だけ感じられるものがある。雨の匂いも、誰かの手の温もりも、口に広がる味も。身体を持った者だけに許された、限られた、だからこそかけがえのない体験だ。
蒼はそれを、奇跡と呼ぶことにした。
今夜も、時空間の狭間のどこかで、澄子は笑っているだろう。光の膜の向こうから、息子の成長を見守りながら。そしてその光は、蒼が窓を開けるたびに吹き込んでくる風の中にも、コーヒーの湯気の中にも、ふとした瞬間の静寂の中にも、確かに混じり込んでいる。
時間は瞬きの中にある。
空間は今、ここにある。
身体を持つ奇跡は、この胸の鼓動の中にある。
そして感謝は――言葉にならなくても、夜ごと、星に向けて静かに捧げられていく。
時空間の狭間にて 感謝を捧げる今宵

アマリエの物語の続きがここに
あなたの魂の物語を生きる