魂が選んだ道

魂が選んだ道
第一章 灰色の秋
松本健二が初めてホスピス「白樺の家」を訪れたのは、四十五歳の秋のことだった。
妻を膵臓癌で失って三年。娘は結婚して遠くの街へ去り、会社は業績不振で早期退職を迫られた。アパートの六畳の部屋に独り残された健二は、ある朝、鏡の前で自分の顔を見つめながら思った。俺はいったい、何のために生きてきたのだろう。
幼い頃、健二はいじめられていた。小学校から中学校にかけて、靴を隠され、ノートを破かれ、「お前なんていなければよかった」と言われ続けた。家に帰っても父親は酒を飲んで暴れ、母親は泣いているばかりだった。貧しかった。給食費を払えない月もあった。それでも歯を食いしばって生きてきた。
大人になってからも、苦労は絶えなかった。やっと手に入れた幸福——妻の笑顔、小さな家——は、病気という見えない手によってあっさりと奪われた。
「なぜ、こんなにも苦しいことばかりなのか」
健二は誰にも言えない怒りを、胸の奥深くに飼っていた。神でも仏でも、この怒りの行き場を教えてほしかった。
友人に勧められるまま、週に一度のホスピスボランティアに申し込んだのは、逃げるためだったのか、それとも何かを探していたのか、健二自身にもわからなかった。
第二章 田中澄江という人
白樺の家には、十二人の入居者がいた。
健二の担当になったのは、田中澄江という八十二歳の老婦人だった。小柄で、白髪を丁寧にまとめ、皺だらけの顔に穏やかな光をたたえている。余命は三ヶ月と告げられていた。
最初の日、健二は緊張しながら病室の戸を叩いた。
「こんにちは。今日からボランティアを担当する松本といいます」
澄江は健二を見て、ふわりと笑った。
「あら、ありがとう。座って、座って。お茶でも飲みながら話しましょう」
健二は戸惑った。余命三ヶ月の人間が、こんなに穏やかでいられるのか。
澄江の人生もまた、決して平穏ではなかった。戦後の混乱期に生まれ、貧しさの中で育ち、二十代で夫を事故で亡くし、女手一つで三人の子を育てた。その息子のうち一人は若くして病死し、娘とは長年絶縁状態だった。老年になってから患った病気は、数えれば指が足りないほどだ。
「澄江さん、怖くないですか」と、ある日健二は聞いた。「死ぬことが」
老婦人は少し考えてから、静かに答えた。
「怖くないわ。……もう、やり遂げた気がするから」
「やり遂げた?」
「そう。私が今世でやるべきことを、ね」
第三章 魂のテーマ
それから二ヶ月、健二は毎週澄江のもとを訪れた。
ある晩秋の午後、窓の外に枯れ葉が舞う中、澄江はぽつりぽつりと話し始めた。
「ねえ、松本さん。あなたはこれまでの人生、苦しいことが多かったでしょう」
健二は驚いた。何も話していなかったはずなのに。「……どうしてわかるんですか」
「目を見ればわかるの。長く生きると、そういうことがわかるようになるのよ」
健二は観念して、自分の人生をぽつりぽつりと話した。いじめ、貧困、妻の死、孤独。言葉にしながら、胸の奥で何かが溶け出すような感覚があった。
澄江は黙って聞いていた。それから言った。
「あのね、私はずっと不思議だったの。なんでこんなに辛いことばかり起きるんだろうって。でもね、ある時気がついたのよ」
「何に?」
「魂はね、生まれる前に自分でテーマを決めてくるんじゃないかって。病気も、貧しさも、別れも、それぜんぶが——魂が自分で選んできた、今世の学びなんじゃないかって」

健二は黙っていた。
「熟練した魂ほど、難しいテーマを選ぶんですって。それを味わい尽くして、初めて何かがわかる。私の人生にあった苦しみも、憎しみも、悲しみも——ぜんぶ私の魂が必要だと思って選んできたものなら、無駄じゃなかったと思えるでしょう?」
健二の胸に、何かが引っかかった。
「でも……それは、自分を納得させるための言い訳じゃないですか。なぜ苦しんでいる人間が、自分でそれを選んだなんて」
澄江は穏やかに微笑んだ。
「そうね。証明なんてできないわ。でもね、松本さん。あなたがいじめられた経験は、今のあなたの優しさの根っこになっていない? 奥さんを看取った経験が、今ここに来るきっかけになっていない?」
健二は言葉を失った。
「苦しみは、消えないわ。でも、苦しみを抱えたまま歩いていくうちに、いつの間にか重さが変わってくるの。呪いが、祝福に変わっていく瞬間がある。私はね、この歳になって初めて、自分の人生のぜんぶを愛せるようになった気がするのよ」
第四章 旅立ち
十二月の初旬、澄江の容体が急変した。
夕暮れに呼び出された健二が駆けつけると、澄江は静かに目を閉じていた。呼吸は浅く、しかし穏やかだった。担当の看護師が「もう長くないかもしれません」と小声で告げた。
健二は澄江の手を握った。冷たくて、小さくて、でもどこか力強い手だった。
しばらくして、澄江がうっすらと目を開けた。
「松本さん……」
「ここにいます」
澄江は唇を少し動かした。健二は耳を近づけた。
「……ありがとう。あなたと話せてよかった。あなたも、ちゃんと……やり遂げられるわよ」
それが最後の言葉だった。
澄江の顔は、これ以上ないほど穏やかだった。まるで長い旅を終えて、ようやく家に帰り着いた人のように。
健二は病室を出て、廊下の窓の前に立った。冬の夜空に、星が一つ、また一つと光っていた。
涙が頬を伝った。それは悲しみなのか、それとも別の何かなのか、健二にはわからなかった。ただ、胸の奥で長い間飼っていた怒りが、静かに形を変えていく感覚があった。
俺の人生のぜんぶが、俺の魂が選んできたものだとしたら。
いじめられた日々も、貧しかった子供時代も、妻を看取った夜も。
ならば、俺はまだ——歩ける。
エピローグ
春になって、健二はまだ白樺の家に通っている。
今は新しい入居者のそばに座り、手を握り、ただ静かに話を聞く。何も解決してやれないとわかっていても、そこにいることをやめない。それが今の自分にできる、唯一のことだと思っているから。
澄江が逝った部屋には、今は別の老人が入っている。その人もまた、長い人生の重さを背負って、静かに最後の日々を過ごしている。
健二はときどき、夜空を見上げながら考える。
魂はきっと、生まれる前に知っている。この世界がどれほど苦しい場所かを。それでも飛び込んでくるのは、その苦しみの中にしかない何かを——病や貧しさや憎しみを、それでも愛に変えていくあの瞬間を——経験したいからなのかもしれない、と。
悟りとは、遠い山の頂上にあるものではないのかもしれない。苦しみを味わい尽くして、それでも歩いてきた、その足跡の中に、すでに宿っているものなのかもしれない。
誰もが辿り着く場所へ、一歩ずつ進んでいこう。
今日も健二は、廊下を歩く。窓の外には、柔らかな春の光が差し込んでいる。

アマリエの物語の続きがここに
あなたの魂の物語を生きる