糸の果て、魂の岸辺で

糸の果て、魂の岸辺で
第一章 終わりと始まりの間で
桜井はるかが緩和ケア病棟に配属されて七年が過ぎたころ、彼女は不思議な倦怠感の中にいた。
死は、いつも静かに来る。廊下の端の個室に、今日もまた一人の老人が横たわっていた。桜入りの病衣。深く刻まれた皺。しかし片岡昭三という名の八十四歳の男は、はるかが朝の検温に訪れると、必ず眼を開いて待っていた。
「今日も来てくれたね」
その声は枯れ木のようでいて、どこか澄んでいた。
はるかは微笑みながらバイタルを測る。体温、脈拍、血圧。数字の向こうに命がある。七年前、初めてこの病棟に立ったとき、先輩から言われた言葉を今も覚えている。ここは終わりの場所じゃない。渡り場所よ。
当時は意味が分からなかった。今も、半分しか分からない。
「昨夜は眠れましたか」とはるかは訊いた。
「夢を見たよ」昭三は天井を見上げながら言った。「広い草原に、光の道があってね。歩いていたら、君のような女の人が立っていた」
「私ですか」
「似ていたが、違った。もっと若くて、着物を着ていた。でも目が……君と同じ目だった」
はるかは笑って受け流そうとしたが、胸のどこかが小さく震えた。
祖母の澄子も、よく言っていた。お前の目は、ずっと昔から知っている目だ、と。
第二章 見えない糸
十月の終わり、病棟には金木犀の香りが漂い込んでいた。
昭三の容態は、緩やかに、しかし確実に傾いていた。それでも彼は毎朝はるかを待ち、話した。若いころ船乗りだったこと。嵐の夜に仲間を失ったこと。長崎の港で妻と出会ったこと。子どもたちはもう孫もいて、それぞれの人生を生きていること。
ある午後、点滴の交換に訪れたはるかに、昭三は突然訊いた。
「君は、前世を信じるかね」
「……どうでしょう」とはるかは正直に答えた。「分からないです。でも、信じたいとは思っています」
「私はね」昭三は皺だらけの手を胸の上で組んだ。「信じているというより、知っているんだ。感じているんだよ」
「どんなふうに」
「例えば、今がそうだ」彼はゆっくりとはるかに視線を向けた。「君に初めて会ったとき、初めてと感じなかった。どこか懐かしかった。人はそれを気のせいだというが、私には分かる。魂は繰り返すんだ。形を変えて、時代を変えて、でも芯は同じままで」
はるかは答えられなかった。
祖母の澄子が逝ったのは、はるかが看護師になった年だった。認知症が進んでいた澄子は、最後の数週間、よく見知らぬ人の名を呼んだ。子どもでも夫でもない、遠い誰かの名を。そしてある夜明けに、安らかな顔で息を引き取った。
ああ、やっと会えた、というのが最後の言葉だった。
誰に、と問う間もなかった。
「繋がっているんですね」はるかは、自分でも思いがけないほど素直にそう言っていた。「見えなくても」
昭三は微笑んだ。七十年分の皺が、一斉に柔らかくなるような笑顔だった。
「そう。見えない糸でね。切れることはないよ。死んでも、生まれ変わっても、ずっと」
第三章 魂が脱ぐもの
十一月の第二週、昭三は食事が取れなくなった。
点滴のみで繋ぐ命は、灯台の灯りに似ている。嵐の中では心細く見えるが、確かに光っている。
はるかは夜勤のたびに彼の部屋に立ち寄るようになっていた。規則を超えた何かに引かれるように。
ある夜、廊下の蛍光灯が一本切れかけていて、昭三の部屋だけが異様に静かだった。はるかが覗くと、彼は目を覚ましていた。
「眠れないんですか」
「眠るのが怖いんじゃなくてね」昭三は言った。「楽しくて眠れないんだ。いろんなものが見える。光が、声が、顔が」
「誰の顔ですか」
「亡くなった人たち。妻も、友人も。それから……会ったことのない人たちも」彼は少し考えてから続けた。「魂がね、君、服を脱ぐように人間を脱ぐんだよ。死ぬときに。怖いことじゃない。ただ、重たいものを置いていく感じだ」
「人間を……卒業する、みたいな」

昭三の目が、ぱっと明るくなった。
「そうだ。卒業だ。いい言葉だな。学校を卒業しても、学びは終わらないだろう。魂も同じだ。人間という形を卒業しても、旅は続く。私にはそれが分かる。怖くない。むしろ……楽しみだよ」
はるかは泣きたくなった。泣かなかった。でも、胸の奥で何かが静かに溶けていくのを感じた。
七年間、死に立ち会い続けてきた。その度に心のどこかで問い続けてきた疑問に、この老人は答えを持っていた。言葉ではなく、存在で。
第四章 慈愛の朝
昭三が逝ったのは、十一月十四日の午前四時二十三分だった。
はるかは夜勤中だった。モニターのアラームが静かに鳴り、彼女は走らず、ゆっくり廊下を歩いた。急ぐ必要がないと、体が知っていた。
部屋に入ると、昭三は穏やかな顔で横たわっていた。口の端が、かすかに上がっているように見えた。
はるかは彼の手を取った。まだ温かかった。
その瞬間、言葉にできないものが部屋に満ちた。悲しみではなかった。圧倒的な静けさ、そして——慈愛、としか呼べないもの。まるで何か大きなものが、この部屋を、この老人を、そしてはるか自身をも包んでいるような感覚。
ありがとう、と声が聞こえた気がした。
はるかの声でも、昭三の声でもない。もっと古い、もっと深いところから来る声。
涙が頬を伝った。悲しみの涙ではなかった。懐かしさと、温かさと、それから——なぜか分からないが——希望の涙だった。
翌朝、遺族の整理の際に、昭三のベッドサイドテーブルから小さなノートが見つかった。遺族から、本人が「看護師の桜井さんに」と言っていたと伝えられ、はるかの手に渡った。
開くと、震える字で、短い詩が書いてあった。
第五章 新たな道へ
はるかはその詩を、三度読んだ。
病棟の休憩室で、コーヒーの湯気の向こうに、昭三の顔が浮かんだ。妻を亡くし、仲間を失い、八十四年を生き抜いた男の顔が。穏やかで、満ちていて、どこまでも自由な顔が。
彼女は携帯電話を取り出し、先月撮った写真を開いた。祖母の命日に墓参りをしたときの写真。澄子の墓石の前で、はるかは何を祈ったのか、もう覚えていなかった。
でも今なら分かる。
また会おう、と祈っていたのだ。どんな形でも、どんな時代でも。見えない糸で繋がったまま。
窓の外で、冬の朝が白んでいた。
はるかは立ち上がった。今日も患者たちが待っている。悩んでいる人、怖がっている人、安らいでいる人。それぞれの魂が、それぞれの旅の途中にいる。
自分もその一人だ、とはるかは思った。
看護師である前に、魂を持つ一人の旅人として、この渡り場所に立っている。見えない糸に引かれながら、慈愛に包まれながら、新たな道を探し求めながら。
それでいい。それがいい。
彼女はノートを胸に抱き、廊下へ出た。
エピローグ
昭三が遺したノートの詩は、こう結ばれていた。
生まれ変わる度 魂は成長していく
目に見えない糸で 繋がり導かれている
人間を卒業しても 旅は続く終わらない 慈愛に包まれながら
新たな道を探し求め
はるかは、その詩を額に入れて、ナースステーションの小さな棚の上に置いた。
誰かが「何の詩ですか」と訊くたびに、彼女は微笑んでこう答えた。
「大事な人に、教えてもらったんです。死は終わりじゃないって。旅の、次の章が始まるだけだって」
窓の外では、今日も誰かが旅立ち、どこかで誰かが生まれ、見えない糸が静かに、世界を編み続けていた。

アマリエの物語の続きがここに
あなたの魂の物語を生きる