味わうという名の祈り

味わうという名の祈り
第一章 すべてが崩れた日
春花が会社の机を段ボール箱に片付けたのは、三月の終わりのことだった。
「君の感性は時代に合っていない」と部長は言った。ただそれだけだった。十年間書き続けたコピーの束が、その一言で紙くずになった。
田中春花、三十二歳。コピーライターとして働いた十年間、彼女はずっと「思い通り」を目指してきた。言葉で人の心を動かす。クライアントに喜ばれる。賞を取る。そのすべてを設計図のように描いて、その通りに生きようとしてきた。
しかし現実は設計図を嘲笑うように狂い続けた。
二年前には五年付き合った恋人に去られた。「君といると、息が詰まる」と言い残して。昨年には、心血を注いだプロジェクトが白紙に戻った。そして今日、クビだ。
アパートに戻ると、部屋の中がやけに広く感じた。荷物が少ないわけではない。ただ、何かが抜け落ちた空洞がそこにあった。
春花はソファに座ったまま、窓の外を見た。桜がちらちらと散っていた。誰かが「きれいだね」と言えば、きれいに見えたのかもしれない。しかし今の彼女の目には、ただ花びらが落ちているだけにしか映らなかった。
泣こうとしたが、涙も来なかった。
第二章 陶器の中の宇宙
翌日から、春花は当てもなく街を歩き続けた。仕事を探す気にもなれず、友人に連絡する気にもなれず、ただ足の向くままに。
四日目の朝、路地の奥に一軒の古い工房を見つけた。
「白川陶芸工房」という小さな木の看板。引き寄せられるように中を覗くと、白髪の老人が轆轤(ろくろ)の前に座っていた。
「何か探しものかね」
老人は手を止めずに言った。七十八歳の白川宗三は、五十年以上土と向き合ってきた陶芸家だった。
「いえ、ただ……なんとなく」
「ならば、座ってみなさい」
追い払われると思っていた春花は、拍子抜けしてスツールに腰を下ろした。老人の手の動きを黙って見ていると、不思議と心が静まっていった。
「焼き物というのはね」と宗三は静かに言った。「思い通りにはならんものだ」
春花は顔を上げた。
「どれだけ丁寧に形を作っても、釉薬(うわぐすり)をかけても、窯に入れたら、あとは土と火の話だ。ひびが入ることもある。色が変わることもある。爆ぜることもある」
轆轤が回り続ける中で、老人は続けた。
「しかし、思い通りにならんからこそ、窯を開けた瞬間が楽しいんだ。自分の想像を超えたものが、そこにある。それを知る喜びとでも言うかな」
春花は黙っていた。
「お嬢さん、あなたは何かを失ったような顔をしている」
図星だった。しかし春花は首を振った。
「失ったんじゃなくて……もともと、なかったのかもしれません」
「ほう」
老人は轆轤を止めた。両手を膝の上に置き、春花をまっすぐ見た。
「では、あったものは何だね」
第三章 苦いも、甘いも
その日から春花は、週に三度工房を訪ねるようになった。
宗三は何も強制しなかった。ただそこにいることを許してくれた。春花は粘土をこねながら、少しずつ自分の話をした。会社のこと、恋人のこと、「思い通り」にしようとしていた人生のこと。
「私、ずっと苦かったんです」とある日春花は言った。「でもそれを認めたくなかった。苦いと思ったら負けみたいで」
宗三は茶をすすりながら答えた。
「苦い薬は、飲まんといかんこともある。しかしな、苦さも味のうちだ。甘いだけのものは、やがて飽きる」
「それって……」春花は言葉を選んだ。「苦しくても、それが人生だってことですか」
「違う」老人はゆっくりと言った。「苦しいか楽しいかは、あなたが決めることだ。しかし、苦いという感覚を拒絶するか、それとも味わうかは、もっと根本的な選択だ」
春花は手を止めた。
「味わう?」

「そう。苦さを苦いと感じながら、ちゃんと舌の上に置く。逃げずに。でも溺れずに。それが生きるということじゃないかと、わしは思っとる」
春花の目の奥で、何かが揺れた。
思えば、彼女はずっと感じることを恐れていた。悲しければ悲しいほど、それを「失敗」と定義して、次の計画を立てた。傷つけば傷つくほど、感情を設計図に変えようとした。
しかし感情は設計図にならない。
人の心は、轆轤の上の粘土と同じだ。形を与えようとすればするほど、予想外の方向へ広がっていく。
第四章 淡々と、されど情熱
五月になると、春花はフリーランスのライターとして仕事を受け始めた。
それは決して派手な再起ではなかった。最初の仕事は、地域の農家のウェブサイトに載せるたった三百字の紹介文だった。報酬は微々たるものだった。
しかし春花は、その三百字に三日かけた。
農家のおじいさんの話を聞いた。畑の土のにおいを嗅いだ。朝露に濡れたキャベツの葉を写真に撮った。そして書いた。消した。また書いた。
完成した文章を見て、農家の娘さんが言った。
「お父さんが泣いてましたよ。こんなにうちのこと、わかってくれる人は初めてだって」
春花は帰り道、夕暮れの中を歩きながら、自分の中に温かいものが宿っているのを感じた。
それは「思い通りになった」という達成感ではなかった。もっと静かで、もっと深いもの。自分が何かのために、誰かのために、ちゃんと存在できたという感覚。
工房で宗三に話すと、老人は目を細めた。
「自分のために生きるということがわかってきたな」
「自分のために?でも私は農家さんのために書いたんですよ?」
「同じことだ」と宗三は言った。「自分のために生きるとは、自分の欲だけで生きることじゃない。自分の魂が喜ぶことをする、ということだ。あなたの魂は、ちゃんと誰かに届く言葉を書くことで喜ぶ。それがあなたの『自分のために』だろう」
春花は、その言葉を胸の奥にしまった。
「淡々と、されど情熱を持って」と宗三はつぶやいた。「わしが五十年、ずっと心がけてきたことだ。大声を上げなくてもいい。旗を振らなくてもいい。ただ静かに、しかし全力で、今この瞬間を燃やす」
エピローグ 味わうという名の祈り
秋になって、春花は初めて自分の陶器を窯に入れた。
小さな茶碗だった。不格好で、ひずんでいて、とても誰かに見せられるものではないと思っていた。
しかし窯を開けた瞬間、春花は息をのんだ。
釉薬が予想外の模様を描いていた。青と灰色が混ざり合って、まるで夜明けの空のような表情が、そこにあった。
「どうだ」と宗三が隣で笑った。
「思い通りにならなかったけど」と春花は言った。「こっちの方が、ずっといい」
「そうだろう」
春花はその茶碗を両手で包んだ。ひずんだ形が、手のひらにちょうど馴染んだ。
この一年で、思い通りにならないことがたくさんあった。仕事、恋愛、自分自身の弱さ。そのすべてを「失敗」と呼んでいた頃の自分がいた。
しかし今はわかる。
思い通りにいかないから、驚くことができる。苦さがあるから、甘さの意味がわかる。傷ついたから、誰かの傷がわかる。
人生は苦い薬か、甘い蜜か——そのどちらでもなく、そのどちらでもある。それを決めるのは出来事ではなく、自分の舌だ。どれだけちゃんと、味わおうとするかだ。
春花はその日の夕方、窓辺に茶碗を置いて、緑茶を一杯淹れた。
苦かった。ちょうどよく、苦かった。
舌の上でゆっくりと転がして、彼女は初めて「おいしい」と思った。ただ苦いのではなく、深くて、豊かで、命の味がした。
淡々と、されど情熱を持って。
春花は静かに目を閉じ、もう一口飲んだ。
なぜ生まれてきたのか、なんて大げさな問いは、いつの間にか消えていた。ただここにいる。ただ今を味わっている。それで十分だと、魂の奥の、言葉にならない場所が、静かに頷いていた。
「思い通りにいかない」それを知る喜びを知る。 人生は苦い薬か、甘い蜜かは自分次第。 淡々と、されど情熱——人生を謳歌する。

アマリエの物語の続きがここに
あなたの魂の物語を生きる