魂が選んだ嵐の中で
魂が選んだ嵐の中で
第一章 崩れ落ちた午後
三月の終わり、水嶋賢司は会議室の白い天井を見上げていた。
「水嶋さん、あなたの管理ミスが原因です」
人事部長の声は穏やかだったが、その言葉は鋭利な刃のように胸に刺さった。部署の予算横領が発覚した。担当者は一年前に退職した先輩社員だったが、当時の直属上司として賢司の名前が書類に残っていた。
「私は関与していません」
そう言葉を絞り出したが、証拠は状況を語っていた。書類の印鑑、承認のメール、すべてが賢司の管轄下で起きたこととして記録されていた。
降格。それが会社の決定だった。
四十二歳。十八年間誠実に働いてきた会社で、賢司はある日突然、罪人のように扱われた。
自宅に戻ると、妻の千晶は黙って夕食を並べた。子供たちはすでに眠っていた。賢司は箸を持ったまま、一口も食べられなかった。
「なぜ俺なんだ」
声に出したつもりはなかったが、言葉は部屋に漂った。千晶は何も言わなかった。ただ、そっと湯呑みを賢司の前に置いた。緑茶の湯気が静かに立ち上がり、消えた。
その夜、賢司は眠れなかった。怒りと悲しみと、そして言いようのない虚しさが、波のように押し寄せては引いていった。
なぜ、こんな不条理なことが起きるのか。
その問いが、長い夜の中でぐるぐると渦を巻いていた。
第二章 川沿いの老人
翌週の土曜日、賢司は当てもなく歩いていた。
川沿いの遊歩道は、早朝の光を受けて静かに輝いていた。桜はまだ蕾のままで、ところどころに白い花びらが一枚二枚と散り始めていた。
ベンチに一人の老人が座っていた。七十代後半だろうか。白い髪に、深い皺が刻まれた穏やかな顔。膝の上に文庫本を開いたまま、川面をじっと眺めていた。
賢司は少し離れた場所に腰を下ろした。しばらく沈黙が続いた後、老人が口を開いた。
「随分と重いものを背負っておられますな」
賢司は驚いて老人を見た。
「顔に書いてあります」老人は微笑んだ。「怒りと、疑問と、それから……諦めの一歩手前というような」
賢司は苦笑した。見知らぬ老人に見透かされたことへの照れくささと、不思議な安堵感があった。
気がつけば、賢司は話し始めていた。会社のこと、降格のこと、自分が何も悪いことをしていないこと。老人は黙って聞き続けた。川の音だけが絶え間なく流れた。
「不条理だと感じますか」老人は最後にそう言った。
「ええ」
「そうですね」老人はゆっくり頷いた。「でも、一つだけ聞いてもいいですか。あなたは、なぜこの出来事が『あなたに』起きたのかを、考えたことはありますか」
「……それは」賢司は言葉に詰まった。「運が悪かっただけじゃないんですか」
老人は静かに首を振った。
「私はね、人生には偶然がないと思っているのです。魂というものがあるとしたら、それは長い旅をしている。今世だけではなく、もっと長い、気の遠くなるような旅を」
賢司は黙って聞いた。
「この世で経験するすべてのことは、魂が何かを学ぶための機会として用意されている。不条理に思えることも、理不尽に思えることも、実は過去から積み重ねてきたものと向き合う時間なのかもしれない」
「……カルマ、というやつですか」
「そう呼ぶ人もいます」老人は微笑んだ。「でも、難しく考えなくていい。ただ、この状況があなたに何を問いかけているのか。それだけを、静かに感じてみてください」
老人は立ち上がり、川の方へゆっくり歩いていった。
賢司はしばらくその場に座ったまま、川の流れを眺め続けた。
第三章 過去から流れてくるもの
その夜、賢司は不思議な夢を見た。
どこかの村。田んぼが広がる風景。自分はそこに立っていて、しかし自分ではない誰かだった。その「誰か」は、村の財産管理を任された男で、ある日、若い部下の不正を見て見ぬふりをした。波風を立てたくなかったからだ。その後、部下の不正が露見した時、男は知らなかったと言い張り、部下だけが罰を受けた。
夢の中で、賢司はその「誰か」の心の奥底を感じることができた。罪悪感。しかし、それを認めたくない意地。そして、長い年月をかけて固まった、重い石のような後悔。
目が覚めると、夜明けの光が窓の隙間から差し込んでいた。
賢司は布団の中で天井を見つめながら、夢の中の感覚を手放さないようにしていた。夢は夢に過ぎない。そんなことは分かっていた。でも、胸の中に何かが残っていた。温かくも、切なくもある、不思議な感覚が。
もしも、あの夢が本当に「過去」の何かだとしたら。自分がかつて、誰かに同じことをしたのだとしたら。
「今度は、逃げないでいろということか」
声に出してみると、不思議と胸が軽くなった。
怒りはまだあった。理不尽だという思いもあった。でも、その奥に、ほんの少しだけ、新しい感覚が芽生えていた。
受け止める、という選択肢。
第四章 実直であること
月曜日、賢司は上司の部屋をノックした。
「何の用ですか」冷ややかな声が返ってきた。
「改めて、状況を整理させてください。私が何をして、何をしていなかったか。そして、今後どうすれば信頼を取り戻せるかを、話したい」
上司は眉を上げた。
「言い訳ではありません」賢司は続けた。「ただ、実直に話したいんです。隠すことも、誇張することも、なしに」
その日から、賢司は変わった。
降格を受け入れた。不満を漏らすことをやめた。新しい立場で、黙々と仕事をした。かつての部下から指示を受けることもあった。それでも、賢司は丁寧に、誠実に仕事をした。
周囲は最初、戸惑った。悲劇の主人公として振る舞うか、あるいは反発するか。どちらかを期待していたのかもしれない。しかし賢司はどちらでもなく、ただ静かにそこにいた。
半年が経った頃、かつての部下の一人が賢司に言った。
「水嶋さん、なんか変わりましたよね。なんか……落ち着いたというか」
「そうかな」賢司は笑った。
「うん。なんか、前よりずっと、一緒にいて安心する感じがします」
その言葉が、賢司の胸に静かに灯をともした。
第五章 魂の旅は続く
秋になった頃、賢司は再び川沿いを歩いた。
桜はすっかり散り、葉は黄金色に色づいていた。川の流れは変わらず、ただ滔々と続いていた。
あの老人のことを何度か思い出した。もう一度会えないかと思い、何度かベンチの前を通ったが、老人の姿はなかった。
その日も老人はいなかった。
賢司はベンチに腰を下ろし、川を眺めた。
怒りは、いつの間にか消えていた。理不尽だという思いも、まだ完全には消えていないが、遠くなっていた。その代わりに、言葉にしにくい何かが胸の中に根を張っていた。
それは、信頼のようなものだった。
自分の人生への信頼。これまで起きたこと、これから起きることすべてに、何らかの意味があるのだという、根拠のない、しかし揺るぎない感覚。
賢司は空を見上げた。雲が流れていた。
一つとして同じ形の雲はない。一瞬一瞬、形を変えながら、それでも確かにそこにある。魂というのも、そういうものかもしれないと思った。何世もかけて、少しずつ形を変えながら、旅をしている。
「どちらを選んでも、未来は変わる」
老人の言葉ではなく、どこからか聞こえたような気がした言葉が、胸の中で響いた。
賢司は小さく頷いた。
俺は、逃げない方を選んだ。それでいい。
エピローグ 光の余韻
翌年の春、賢司は新しい部署の責任者として任命された。
しかしそれは、もはや賢司にとって最も大切なことではなかった。
大切なことは、毎朝、川沿いを歩くこと。流れる水を見ながら、今日一日、実直でいようと心を決めること。
帰り道、千晶が玄関で出迎えてくれること。子供たちの笑い声が家に満ちていること。
不条理な出来事はこれからも起きるだろう。人生はきっと、そういうものだ。しかし賢司は知っていた。嵐が来るたびに、魂は何かを問いかけてくる。その問いを、逃げずに受け止める時、何かが少しずつ変わっていくということを。
川は今日も流れている。
過去から来て、今を通り、未来へと続く、長い長い流れ。その中に、自分という小さな魂がある。旅を続けながら、少しずつ、光の方へ向かっている。
過去世の積み重ね 不条理な出来事と 今世で向き合う時 実直に受け止める
カルマ解消の機会 魂は旅を続ける
どちらを選んでも 未来は変わるだろう
(了)
アマリエの物語の続きがここに
あなたの魂の物語を生きる