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光の調べ — ある音楽療法士の覚醒

光の調べ — ある音楽療法士の覚醒

光の調べ — ある音楽療法士の覚醒

第一章 不調和の淵に立つ

三月の終わり、東京郊外の小さなクリニックで、音楽療法士の水無月澪は白衣のボタンを留めながら、鏡の中の自分を見つめていた。

目の下に刻まれた隈。かすかに震える指先。五年間、他者の心を癒し続けた彼女の体は、今や悲鳴に近い沈黙を発していた。

「先生、今日の午後の患者さん、三名キャンセルが出ました」

受付の橘さんの声が廊下から届く。澪は小さく息を吐いた。三名のキャンセル。かつてならそれは、わずかな休息として受け取れたかもしれない。しかし今の彼女には、それさえも重くのしかかった。何かが足りない。何かがずれている。その感覚が、もう半年以上続いていた。

セッションルームに入ると、グランドピアノが静かに待っていた。澪はそっと鍵盤に触れる。かつて、この鍵盤を叩くたびに全身を流れた喜びの電流を、彼女はいつの間にか感じなくなっていた。

「私は、何のために弾いているのだろう」

その問いを声に出したのは、おそらく初めてだった。言葉は空中に溶けて消え、部屋は答えを返さなかった。


第二章 響き合う調べ

翌週、澪のもとに一人の老婦人が訪ねてきた。

佐伯久子、七十二歳。娘に連れられてやって来た彼女は、二年前に夫を亡くしてから、ほとんど言葉を発しなくなったという。病名はない。ただ、世界との接点を、静かに失いつつある人だった。

澪は久子を椅子に座らせ、いつものようにピアノの前に向かった。何を弾こうか、と考えたとき、ふと指が動いた。楽譜もなく、計画もなく。ただ、目の前に座るこの老婦人の呼吸に合わせるように、音が生まれた。

それはシューベルトでも、バッハでもなかった。名前のない旋律。波のように緩やかで、雨音のように静かな、その場だけに存在する音楽だった。

澪は気づかなかったが、久子の手が、膝の上でかすかに動いていた。指が、音楽のリズムに合わせて、ゆっくりと開いたり閉じたりしていた。

セッションが終わったとき、久子はしばらく黙ったまま、ピアノを見つめていた。

「……昔、主人がよく口笛を吹いていました」

娘が息をのむ音がした。二年ぶりに聞く、母の声だった。

「夕食の支度をしていると、廊下の向こうから聞こえてきて。私は振り向かずに、でも笑っていて」

久子の目から、一粒の涙が静かに落ちた。

澪の胸に、何かが打ち寄せた。潮のような、温かい何かが。

ああ、これだ、と澪は思った。これを私は、しばらく忘れていた。


第三章 静かに世界を照らすもの

その夜、澪はひとり自宅のバスタブに浸かりながら、天井を見つめていた。

久子の涙。娘の震える肩。そしてあの名もない旋律。

澪が音楽療法士になったのは、二十三歳のとき、自分自身が深く傷ついていた時期だった。大学院の研究室で燃え尽き、眠れない夜が続いた頃、偶然立ち寄った小さなホールで、一人のヴァイオリニストの演奏を聴いた。技巧が優れていたわけではない。むしろ、ところどころに揺らぎがあった。しかしその揺らぎの中に、澪は確かな何かを感じた。

この人は、音楽を通して、私に話しかけている。

それが、始まりだった。

しかしいつの頃からか、澪は「正しい療法」を追い求めるようになっていた。エビデンス、プロトコル、効果測定。それ自体は大切なことだった。だが、気づけば彼女は、音楽を「道具」として使うようになっていた。自分の内側から湧き出るものではなく、外側の基準に合わせた何かとして。

不調和、とは何か。

澪はゆっくり目を閉じた。

自分の中にある光から離れること。それが、不調和なのかもしれない、と彼女は思った。久子が世界と断絶していたように、澪もまた、自分の魂と断絶していた。二人は鏡だった。出会うべくして出会った、二つの不調和だった。

では調和とは何か。

それは、遠くにある目標ではない。今ここにある、自分の内側の声に耳を澄ますこと。その声に従って、ただ動くこと。今日のセッションで、澪は久子のために何も「しなかった」。ただ、耳を澄ませて、感じて、弾いただけだった。

そのとき初めて、久子は話した。

何もしないことが、最も深い関わりになることがある。


第四章 扉が開く朝

翌月、久子は再びクリニックを訪れた。今度は娘の付き添いなしに、一人で。

「また来てしまいました。先生のピアノが、忘れられなくて」

澪は微笑んで、彼女を迎えた。

この日のセッションは、前回と異なる展開になった。久子がふと言った。

「私も昔、少しだけ弾けたんです。もう指が動かないと思っていたけど」

澪はピアノベンチをずらして、半分のスペースを作った。

挿絵

「一緒に座りませんか」

久子はためらいながらも、ベンチに腰を下ろした。皺の刻まれた手を、鍵盤の前に置く。澪は久子の右手に、そっと自分の左手を添えた。

「何でもいいんです。音が出れば」

久子の指が、恐る恐るひとつの鍵を押した。

ドン、と、少し強すぎる音が部屋に響いた。

久子が小さく笑った。澪も笑った。

そこから二人は、子どもが砂遊びをするように、音を重ねていった。旋律でも和音でもない、ただの音の遊び。しかしその空間には、不思議な温かさがあった。二つの魂が、音という媒体を通して、静かに触れ合っていた。

セッション後、久子は帰り際にこう言った。

「先生、あなたの音楽は、押しつけないのね。こちらが受け取りたい分だけ、受け取れる」

澪は言葉が出なかった。

それは、澪が五年間で患者から受け取った、最も大切な言葉だった。

静かに、世界を照らす。

それでいい。眩しく輝く必要はない。ただ、そこに在るだけで、誰かの暗闇をほのかに照らせる光であれば、それで十分なのだと、澪は初めて思えた。


第五章 内なる光が目覚めるとき

五月の連休、澪は一人で長野の山間の宿に向かった。

携帯も、楽譜も、何も持たずに。

宿の縁側から見える山は、まだ頂上に雪を残していた。朝、鳥の声で目が覚めると、澪はそのまま縁側に出て、冷たい空気を深く吸い込んだ。

何もしない一日が始まった。

昼過ぎ、宿の奥の部屋に古いアップライトピアノがあることを宿主に教えてもらった。調律が狂っているという。

「弾いていいですか」

「どうぞ。誰も弾かんから、喜んでると思うよ」

澪はそのピアノの前に座った。数音弾いてみると、確かにいくつかの鍵は音が狂っていた。しかしそれがかえって、澪の心を解放した。「正しい音」を出す必要がない。「正しい療法」でなくていい。

澪は弾いた。

何時間か、わからない。気づけば窓の外は夕暮れ色に染まっていた。弾きながら澪は、何度か泣いた。理由はわからなかった。悲しいわけではなかった。ただ、長い間閉じていた何かが、音と一緒に流れ出てくるような感覚だった。

心の奥底に、ずっと光があった。

それは消えていたのではない。ただ澪が、厚い霧の中でその存在を忘れていただけだった。

弾き終わったとき、澪の手は震えていたが、体の中は不思議と静かだった。調和、とはこういう感覚なのかもしれない、と思った。嵐の後の海のような。すべてが解放されて、そして静まり返った、あの深い静けさ。


エピローグ

六月、クリニックの庭にアジサイが咲いた頃、久子から手紙が届いた。

便せんには丁寧な字で、こう書かれていた。

水無月先生へ。先日、家の中を片付けていたら、主人が遺した口笛の楽譜が見つかりました。楽譜と言っても、彼が自分で書き留めたただのメモです。でも私はそれを、今は毎朝眺めています。見ているだけで、心が温かくなります。先生のピアノが、私の中の扉を開けてくれたのだと思っています。ありがとうございました。——佐伯久子

澪は手紙を胸に当てて、しばらく目を閉じた。

体の中で、何かが響いた。深く、静かに。

自らを癒すとは、自分の内側にある光を思い出すことだ、と澪は今では知っている。その光は誰かに与えてもらうものではなく、もともとそこにある。ただ、耳を澄ませ、感じ、動くことで、それは目覚める。

そして一つの光が目覚めるとき、それはやがて、誰かの暗闇をほのかに照らす。

押しつけることなく。ただ、静かに。

響き合う調べかな——

澪はセッションルームへ向かいながら、ふと口の端に微笑みを浮かべた。今日もまた、誰かの奏でる旋律と、自分の内なる旋律が、どこかで交わるだろう。それが、不調和の終わりに見える景色だと、今の澪には分かっていた。

調和への扉は、遠くにあるのではない。

今この瞬間、心の奥底に灯る光の、すぐそこにある。


「不調和の終わりに 調和への扉開く。 心の奥底にある 光を呼び覚ます。」

エピローグ

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