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灯火守り — 末法の闇に咲く一輪の花

灯火守り — 末法の闇に咲く一輪の花

灯火守り — 末法の闇に咲く一輪の花


第一章 支配の網

東京・六本木のガラス張りの高層ビル。その四十二階に、桐島誠一の王国はあった。

誠一は四十五歳、国内屈指の人材派遣グループ「キリシマホールディングス」の創業者だ。かつては「人の可能性を解き放つ」という理念を掲げ、就職氷河期に喘ぐ若者たちに仕事の場を与えた男として称えられた。メディアはこぞって「令和の救済者」と報じた。しかし、それはもはや過去の話だった。

「川上、例の件は進んでいるか」

誠一は窓の外に広がる夜景を背に、部下の川上を顎で指した。視線は書類から離れない。人間を見るとき、誠一の目はいつも値踏みするように細まる。

「はい。田中係長は今週中に自主退職に追い込めます。例の勤怠データを人事部長に流せば——」

「流すな。まだ使え」

誠一の言葉は短く、冷たく、しかし完璧に機能した。彼は人の弱みを蓄積することに、かつて自分の才能を注いでいた情熱の残滓を注ぎ込んでいた。誰かを思い通りに動かす快感。それが彼の魂の隙間を埋める唯一の感覚だった。

その夜、誠一は珍しく残業をしなかった。エレベーターを降り、地下駐車場へ向かう途中、清掃員の老人と目が合った。六十代後半だろうか、腰をわずかに曲げながら、モップで床を磨いている。

「お疲れ様でございます」

老人は深々と頭を下げた。誠一はそれを無視した。——いや、正確には、無視しようとした。しかし、老人の目が妙に引っかかった。卑屈さも媚びもなく、ただ、静かな光をたたえていた。

誠一は立ち止まらなかった。しかし、あの目は、その夜ずっと彼の胸の奥で、小さな石のように沈んでいた。


第二章 亀裂

三週間後、誠一の長女・茉莉(まり、十七歳)が学校を無断欠席した。

連絡を受けた誠一は珍しく早退し、自宅のリビングに茉莉を呼びつけた。しかし茉莉はソファの端に座り、父親を見ようとしない。

「なぜ学校を休んだ」

「……行きたくなかった」

「それで済むと思っているのか」

「お父さんが言うの?」茉莉は突然、顔を上げた。「人の気持ちを踏みにじっておいて、なんで私だけに説教するの」

「何の話だ」

「田中さんのこと。田中さんのお母さんと私のクラスの子、友達なんだよ。田中さん、先週から会社来てないって。お父さんが追い出したんでしょ」

誠一の喉が干上がった。

「会社の話は——」

「なんで能力がある人が、人を苦しめることに使うの」

茉莉の声は震えていた。怒りではなく、悲しみの震えだった。

「私、ずっとお父さんのこと尊敬してた。人を助ける人だって思ってた。でも今のお父さん、全然違う。周りの人を全部、自分の駒みたいに扱ってる」

誠一は何も言えなかった。言葉が、どこかで詰まっていた。

茉莉は立ち上がり、部屋に戻る直前に振り返った。

「お父さんが怖い。でもそれより、そんなお父さんが、かわいそうで怖い」

ドアが静かに閉まった。

その夜、誠一はひとり書斎で飲んだ。いつもの高級ウイスキーが、舌に苦かった。


第三章 地下鉄の老人

翌朝、誠一は初めて電車で出社した。珍しく早く目が覚め、運転手を呼ぶ気になれなかった。

日比谷線の混雑した車内。スーツ姿の誠一は、どこか浮いていた。

乗り換えの駅で、またあの老人を見た。駐車場で清掃をしていた老人だ。今度はスーツではなく、薄手のジャンパーを着て、ホームのベンチに座っていた。膝の上に小さな文庫本を開いている。

——偶然にしては、二度目だ。

誠一は気づくと、老人の隣に座っていた。自分でも驚いた。

「……先日、ビルで」

老人は顔を上げ、穏やかに微笑んだ。

「ああ、あなたでしたか。お疲れのようですね」

「仕事が忙しい」

「そうですか」老人はゆっくりとうなずいた。「でも、顔が、仕事とは違う疲れ方をしていますよ」

誠一は黙った。否定する言葉が出てこなかった。

「あなたに少し、聞いてもいいですか」老人は文庫本を閉じた。「あなたが今、最も恐れていることは何ですか」

「恐れ?」

「ええ。人が支配に走るとき、その奥には必ず、恐れがあります。失うことへの恐れ、軽んじられることへの恐れ。支配は力に見えますが、本当は恐れの裏返しです」

誠一は息を呑んだ。

「私は……」言葉が、ゆっくりと滲み出てきた。「自分が必要とされなくなることが、怖いのかもしれない」

挿絵

創業当初、彼は本当に人の役に立ちたかった。就職できずに泣いていた若者の顔を、今でも覚えている。しかしいつの頃からか、「役に立つ」よりも「必要とされる」ことへの渇望に変わっていた。必要とされ続けるために、人を依存させ、弱みを握り、網を張った。

「あなたは元々、光を持っていた」老人は静かに言った。「今も持っています。ただ、その光を、自分を守る鎧として使ってしまっている」

電車が駅に着いた。老人は立ち上がり、誠一に一度だけ深くうなずいて、ホームに降りていった。

誠一は次の駅まで、動けなかった。


第四章 灯火

その日の午後、誠一は川上を呼んだ。

「田中の件、止めろ」

川上は目を丸くした。「しかし社長、あの資料はもう——」

「破棄しろ。それから田中に謝罪文を送れ。俺の名前で」

「……社長?」

「俺の判断だ」

その夜、誠一は茉莉の部屋のドアをノックした。

「入っていいか」

返事の代わりにドアが開いた。茉莉は少し驚いた顔をして、また俯いた。

誠一は部屋に入らず、廊下に立ったまま言った。

「お前の言う通りだった。俺は間違っていた」

茉莉は顔を上げた。

「お前が怖いと言った気持ち、正しい。俺は怖れから動いていた。人を助けるふりをしながら、ずっと、自分が怖かった」

沈黙が流れた。

「……謝ってくれるの?」

「謝って済む話じゃないかもしれない。でも、変わろうとしている」

茉莉の目に、涙が光った。

「お父さん、最初はそういう人だったよ。私、子供のころ自慢してたんだから。うちのお父さん、困ってる人を助けてるんだって」

誠一の胸の奥で、長い間凍りついていた何かが、溶け始めた。


第五章 末法の中で

翌週、誠一は会社の理念を書き直すプロジェクトを立ち上げた。

派手な発表はしなかった。まず、現場のスタッフ数名と小さな会議室で向き合い、「あなたたちが今感じている問題を聞かせてほしい」と頭を下げた。

川上は困惑し、一部の役員は「社長が変わった」と囁き合った。しかし、現場の若いスタッフたちは、少しずつ顔を上げ始めた。

世界は変わらなかった。ニュースでは今日も、誰かの不正が暴かれ、誰かが誰かを利用し、絶望を語る言葉が溢れていた。末法などという言葉が似合うような時代の澱みは、依然として社会を覆っていた。

しかし誠一は気づいていた。

闇が深いとき、小さな灯火はより遠くまで届く。

月に一度、誠一は地下の清掃員控え室に顔を出し、缶コーヒーを差し入れるようになった。あの老人はそこにいないことが多かったが、あるとき一度だけ出会った。老人は誠一を見て、ただ静かに、深くうなずいた。

言葉はなかった。しかしその沈黙の中に、誠一はすべてを受け取った気がした。


エピローグ

春の終わり、茉莉が大学の推薦入試に合格した。

「社会福祉を学びたい」と茉莉は言った。「困ってる人の側に立てる仕事がしたい」

誠一は微笑んだ。かつて自分が抱いた、あの初めの火を、娘が受け継いでいた。

夜、書斎でひとりになった誠一は、窓の外の東京の灯りを見た。無数の光が、闇の中に散らばっている。その一つひとつに、誰かの生活があり、誰かの悩みがあり、誰かの希望がある。

世界が劇的に変わったわけではない。支配しようとする者は今日もどこかにいて、人の弱みを握ろうとする闇は消えていない。絶望は、まだ世界の大きな部分を覆っている。

それでも——。

誠一はそっと、胸の前で手を組んだ。

能力を私欲のために使う醜さを、かつて自分も持っていた。思い通りにしたいという心の闇が、自分の中にも確かにあった。しかし人は、気づいた瞬間から変われる。消滅の兆しが見えなくても、絶望が世界を覆っていても——

それでも抗い続けることが、人の魂の仕事なのだ。

希望の灯火は、誰かが大きく掲げるものではない。ひとりひとりが、自分の内側に、小さく、しかし確かに灯し続けるものだ。

その夜、東京の空に、星がひとつ、雲の切れ間から顔を出した。

誠一はそれを見て、静かに、深く息を吐いた。

――了――

エピローグ

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