忘れることの、やさしさ

忘れることの、やさしさ
第一章 崩れていく朝
目覚めた瞬間から、何かがおかしかった。
田中夏希は布団の中で天井を見つめたまま、指一本動かすことができなかった。三十二歳。出版社の編集者。それが彼女の「肩書き」だったが、その朝、自分が何者なのかという問いが、胸の奥で黒い霧となってわだかまっていた。
もう三週間、まともに眠れていない。
きっかけは些細なことだった。担当していた作家が急逝し、五年かけて育ててきた作品が宙に浮いた。同時に、七年付き合っていた恋人に別れを告げられた。「君は仕事しか見ていない」という言葉が、今も耳の奥で反響している。重なるようにして父が倒れ、病院と職場を往復する日々が続いた。
どれか一つなら、耐えられた。
でも三つは、多すぎた。
スマートフォンのアラームが鳴っても、夏希は動けなかった。シャワーを浴びる気力もない。昨日も、一昨日も、そうだった。冷蔵庫の中には腐りかけたトマトが一個。流しには洗っていない食器が積まれている。
——私、壊れていくんだろうな。
その思いが、不思議なほど穏やかに浮かんだ。
恐怖ではなかった。ただ、確認するような感覚。ガラスにひびが入るように、自分という構造物が少しずつ崩れていくのを、どこか遠くから眺めているような。
その日、夏希は会社に電話して休暇を申請した。初めてのことだった。
第二章 湖のほとりで
友人の勧めで、夏希は長野の小さな宿に向かった。
「とにかく東京から離れなさい」と言ったのは、大学時代からの友人・奈緒だった。奈緒はヨガのインストラクターをしており、昔から「感じる力が強い人」だと夏希には思えていた。半信半疑ながら、もう選択肢がなかった。
宿から歩いて十分のところに、名もない小さな湖がある。朝靄の中、夏希はその湖のほとりに立った。
水面は鏡のように静かだった。
風もなく、鳥の声もなく、ただ自分の呼吸だけが聞こえる。夏希はその静けさに耐えられなくて、しゃがみこんだ。そのまま地面に手をついた。冷たい土の感触が、掌に伝わってくる。
泣けなかった。
泣きたいのに、涙が出なかった。三週間、ずっとそうだった。感情の蛇口が、どこかで詰まっている。
どれくらいそうしていたのだろう。
気がつくと、隣に人が座っていた。
老いた女性だった。七十代だろうか。白髪を後ろで束ね、焦げ茶色のショールを羽織っている。どこから現れたのか分からなかった。驚いて立ち上がろうとすると、女性はゆっくりと首を横に振った。
「そのままでいいよ。湖は逃げないから」
夏希は動けなくなった。
しばらく二人で、並んで水面を眺めていた。
「辛そうだね」と女性が言った。
「はい」と、夏希は答えた。言い訳も説明も思い浮かばなかった。
「何を失くしたの?」
「全部です」
「ふうん」
女性は小さく笑った。笑われたことに、なぜか腹が立たなかった。
「それはよかった」
「よかった、とは?」
「全部失くす前に、全部がそろっていたってことだから」
夏希には意味が分からなかった。でも女性は続けた。
「あんたが今感じている痛み、それはね、あんたの魂が正直なだけよ。魂は嘘をつけないの。体は我慢できても、魂は我慢しない。だから壊れそうに感じるのは、壊れているんじゃなくて——むしろ、壊れていた何かが、やっと表に出てきたのかもしれない」
夏希はその言葉を、うまく飲み込めなかった。
でも。
なぜか。
何かが、胸の奥でほどけた。
第三章 夢の中の声
その夜、夏希は夢を見た。
夢の中で、彼女は今とは違う時代にいた。着物を着ていた。手が荒れていた。赤ん坊を抱いていた。その赤ん坊は静かで、眠っているのか死んでいるのか分からなかった。
世界が暗かった。
貧しかった。寒かった。どこか遠くで誰かが怒鳴っていた。夏希——いや、その着物の女は——ただ赤ん坊を抱きしめながら、唇を動かしていた。
何を言っているのか聞こえない。
でも夏希には分かった。
「次こそは、ちゃんと生きられますように」
そう祈っていた。
夢は続く。着物の女の隣に、光のようなものが現れた。形がなかった。ただ、あたたかかった。その光は女を包み、そして——彼女の記憶を、そっと引き抜いていった。
痛みを。悲しみを。恨みを。後悔を。

全部を。
女は抵抗しなかった。むしろ、安堵したように——初めて眠れるような顔をして——光の中に溶けていった。
夏希は目が覚めた。
頬が濡れていた。
三週間ぶりに、泣いていた。
第四章 忘れることの意味
翌朝、夏希は再び湖のほとりに行った。
老女はいなかった。宿の主人に聞いても、そんな人物に心当たりはないという。夢だったのかもしれない。でも土の感触は、確かに掌に残っていた。
夏希はスケッチブックを持ってきていた。
気づいたら、言葉を書き始めていた。編集者として、いつも他人の言葉を整えてきた。自分の言葉を書いたことは、ほとんどなかった。
書きながら、夢のことを考えた。
あの着物の女は、私だったのだろうか。
だとしたら、私は何度も生まれてきていて、そのたびに——全てを忘れて——また始めているのだろうか。
忘れることは、喪失だと思っていた。
でも、あの夢の中で光が記憶を引き抜いていくとき、女は苦しんでいなかった。むしろ、それは贈り物のように見えた。もし前世の全ての記憶を持ったまま生まれてきたら——積み重なる痛みと悲しみを全部抱えたまま——私たちはどうなるだろう。
最初の一日で、壊れてしまう。
忘れることは、罰ではなかった。
忘れることは、慈悲だった。
もう一度、まっさらで始めさせてもらえる、という。重すぎる荷物を、背負わなくていい、という。ただ、今この命だけを生きていい、という——宇宙からの、静かな許可だった。
夏希はスケッチブックに書いた。
「前世の記憶は、喪失させる優しさ」
自分で書いておきながら、その言葉が胸に刺さった。刺さったまま、あたたかかった。
第五章 全てを包むもの
東京に戻った夏希は、少し変わっていた。
何かが解決したわけではなかった。父の病気は続いている。仕事は山積みになっている。恋人は戻ってこない。失った作家の原稿は、まだ宙に浮いている。
現実は、何も変わっていない。
でも夏希の中で、何かが変わった。
夜、ベッドに入ると、夏希は今日一日を振り返るようになった。怒ったこと、疲れたこと、うまくいかなかったこと。でもその傍らに、必ず何か小さなものがあった。病院の帰り道に見た夕焼け。父が初めて「ありがとう」と言ってくれたこと。好きなコーヒーの香り。
それらは、ずっとそこにあった。
ただ、見えていなかっただけだ。
夏希は思う。
私たちは守られているのかもしれない。目に見えないプログラムのようなもので、今世に必要な経験だけを与えられ、耐えられない痛みからは——どこかで——そっと遠ざけてもらいながら。
完璧な計画ではないかもしれない。痛いことも、辛いことも、ある。
でも、崩壊する手前で——誰かが、何かが——手を差し伸べている。
あの湖の老女のように。夢の中の光のように。三週間眠れなかった後に流れた、あの涙のように。
夏希は手帳を開き、書いた。
「今世を、ちゃんと味わいたい」
それだけでよかった。壮大な悟りでも、輝かしい覚醒でもなく。ただ、今日この一日を、ちゃんと感じながら生きたい。それだけが、今の自分にできる、精一杯の感謝だと思った。
エピローグ
それから半年後、夏希は一冊の本を世に出した。
亡くなった作家が遺していた未完の原稿を、遺族の許可を得て夏希自身が補完し、完成させたものだった。作家が生前最も伝えたかったテーマ——「生きることの意味を、死の縁で初めて知る」——を、夏希は自分の言葉でそっと埋めた。
本の後書きに、夏希はこう記した。
私たちは、忘れることで守られている。 重すぎる痛みから、重すぎる過去から、そっと遠ざけてもらいながら、 それでも今世という贈り物の中で、もう一度だけ、生きる機会をもらう。
宇宙は冷たくない。 ただ、静かなだけだ。 全てを包む愛は、声を持たない。 でもそれは、確かにそこにある。
あなたが今感じている痛みも、喜びも、 今世でしか味わえない、あなただけのものだ。
長野の小さな湖は、今日もきっと静かに光っている。
あの老女がいたかどうか、夏希にはもう分からない。でも時々、夜風の中で何かあたたかいものを感じるとき、彼女はそっと胸に手を当てる。
心から、感謝している。
全てを包む、何かに。
――了――

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あなたの魂の物語を生きる