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今、息をしている

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今、息をしている

第一章 崩れていく日常

三十七歳の夏、田中美咲は自分の体が突然、他人のものになったような感覚を覚えた。

朝、目を覚ますたびに胸が締め付けられた。空気が薄い部屋の中で溺れているような、あの感覚。医師は「過換気症候群、ストレス性」と言った。処方箋を渡しながら、「お仕事、少し減らせますか」と付け加えた。

減らせるわけがない。

広告代理店のコピーライターとして働く美咲には、三つの大型案件が同時に走っていた。クライアントからの修正は深夜まで続き、チームの後輩たちの原稿も見なければならない。そして誰よりも、美咲自身が「止まること」を知らなかった。

発作が最初に来たのは、プレゼン前日の夜だった。

パソコンの画面を見つめていると、突然、空気の通り道がなくなった。喉が閉じる。肺が動かない。パニックが波のように押し寄せ、床に崩れ落ちた美咲は、オフィスの冷たいフローリングの感触だけを頼りに、なんとか呼吸を取り戻した。

その夜、タクシーで帰宅した美咲は、湯船にも浸からずベッドに倒れ込んだ。天井を見上げながら思った。

——私、壊れてしまったのかもしれない。


第二章 食べられなくなる日々

それから二週間後、今度は胃が拒否を始めた。

朝のトースト一枚が食べられない。昼のコンビニのおにぎりを口に入れると、喉の奥で何かが詰まる。夜は食卓に座ることすらできなくなった。体重は十日で四キロ落ちた。

母親が心配して電話をくれたが、「大丈夫」と言い続けた。大丈夫ではなかった。

内科、消化器科、心療内科——いくつもの病院を転々とした。検査の数値は「正常」。でも美咲の体は正常ではなかった。点滴を打ってもらいながら、カーテンの向こうから聞こえる他の患者の声に耳を澄ませた。老いた男性が何か話していた。看護師がやさしく笑っていた。ごく普通のやりとり。

——あの人は、今日、ちゃんとご飯が食べられたのだろうか。

そんなことを考えたのは、初めてだった。

美咲が休職を決めたのは、八月の終わりだった。上司に電話をかけ、震える声で「少し休ませてください」と言ったとき、思っていたより簡単に「わかった」という言葉が返ってきた。それがかえって、胸に刺さった。

自分がいなくても、世界は回るのだ。

実家のある長野に戻ることにした。新幹線の窓から流れる景色を、美咲はぼんやりと眺めた。山が近づいてくるにつれて、空気の色が変わっていくような気がした。


第三章 山の家の朝

実家は、松本市外れの小さな集落にある古い木造の家だ。

七十二歳になる母の佳代は、美咲が帰ってきた日、何も聞かなかった。ただ、「おかえり」と言いながら、温かい味噌汁を出してくれた。

美咲は、その椀を前にして動けなかった。

湯気が立ち上っている。豆腐と油揚げと、庭で採れた茗荷。出汁の香りが鼻を通り抜けたとき、目の奥が熱くなった。なぜ泣けてくるのかわからなかった。でも涙が出た。

「ゆっくり、ね」と母は言った。それだけ言って、台所に戻っていった。

その夜から、美咲は少しずつ食べられるようになった。

一口。また一口。ゆっくりと、確かめるように。

朝は五時に目が覚めた。都会ならばまだ真っ暗な時間に、山の家の窓からは淡い光が射し込んでいた。縁側に出ると、露が草の上で光り、遠くの山が紫色のシルエットになっている。鳥が鳴いた。空気が、冷たく、清潔だった。

美咲は、深く息を吸った。

——吸えている。

その当たり前のことが、奇跡のように感じられた。胸に空気が入ってくる。肺が広がる。そしてゆっくりと吐き出される。当然のようにずっとそこにあったのに、一度失いかけて初めて、息をすることの豊かさに気がついた。


第四章 佳代の話

ある夕方、縁側で母と並んで茶を飲んでいると、佳代が静かに話し始めた。

「あなたのお父さんがね、倒れたとき」

美咲の父は、美咲が十五歳のときに脳梗塞で倒れ、三年間の闘病の末に逝った。

「最後の半年、ほとんど何も食べられなくなってね。流動食も受け付けなくなって。それでも毎朝、目を覚ますたびに『ありがとう』って言うんだよ。私が『何が?』って聞いたら、『今日も目が開いた』って」

挿絵

美咲は黙って聞いていた。

「最初はね、私、それが辛かったの。目が開いたくらいで何が嬉しいんだって。もっと元気になってほしかったから。でもね、だんだんわかってきた。お父さんは本当に、ありがたかったんだよ。今日もここにいられることが、ね」

夕暮れの光が庭を金色に染めていた。柿の木の影が長く伸びている。

「人間ってね、なくしてみないとわからないのかもしれない。息ができること、ご飯が食べられること。当たり前だと思ってたことが、全部、奇跡なんだって」

奇跡。

その言葉が、美咲の胸の奥に静かに落ちた。石が水面に触れたときのように、波紋がゆっくりと広がっていった。


第五章 今、できていること

九月になった。

美咲は毎朝、縁側に出ることを習慣にした。ただ座って、空気を吸うだけ。それだけのことが、今は祈りのように感じられた。

ある朝、霧が深く、山の輪郭が消えていた。真っ白な世界の中で、美咲は手を膝の上に置き、目を閉じた。

——今、息ができている。

——今、昨日食べたお味噌汁の味を覚えている。

——今、母の声が聞こえる。

——今、私はここにいる。

ひとつひとつを確かめるように、心の中で言葉にした。すると、胸の奥から何かがほどけていくような感覚があった。長い間、どこかで結び固められていた何かが、すうっと緩んでいく。

涙が出た。悲しい涙ではなかった。

美咲はこれまで、「できないこと」ばかりを数えて生きてきた気がした。まだ達成していない目標、足りないスキル、認められていない評価——欠けているものばかりに目を向け、今この瞬間に自分がすでに持っているものを、見ようとしていなかった。

息ができること。

食事がとれること。

愛してくれる人がそばにいること。

これらはすべて、ある日突然なくなりうるものだった。なくなりかけて初めて、それがどれほど尊いものだったかを知った。

——私は今まで、奇跡の上に乗って生きていたのだ。

霧の中から、一羽の鳥が鳴いた。


エピローグ

十月、美咲は東京に戻った。

仕事を再開したが、何かが変わっていた。デスクに座る前に、一度深く息を吸う。コンビニのおにぎりを食べながら、「ありがとう」と思う。それだけのことが、一日の色を変えた。

後輩の一人が、「先輩、なんか変わりましたね」と言った。「なんていうか……余裕ができた?」

美咲は少し笑った。「そうかもしれない」

発作はまだ、ときどき来る。胃が拒否することも、ある。でも今は、そのたびに自分の体に耳を澄ませることができる。体は壊れているのではなく、何かを教えようとしているのだと、今はわかる。

——止まれ、と。

——今、ここに戻れ、と。

実家から帰る新幹線の中で、美咲は小さなノートに書き付けた。父が最後の朝に言っていたという言葉と、自分がこの夏に学んだことを、一緒に。

「息ができなくなる」その苦しみの中で—— 「食事がとれなくなる」命の糧に感謝を—— 「今、できている」奇跡に気づくこと。

窓の外で、夕暮れの富士山がひとつ、静かに立っていた。

その頂が、橙と紫に染まっていた。

美咲はそれを見ながら、深く、深く、息を吸った。

エピローグ

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