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波動のかなたへ――鎖が解ける朝に

波動のかなたへ――鎖が解ける朝に

波動のかなたへ――鎖が解ける朝に


第一章 忘れられない女

冬の朝、篠崎珠緒は母の部屋の前で立ち尽くしていた。

ドアの向こうから聞こえてくる声は、もう珠緒の名前を正しく呼ばない。「あなた、誰?」その四文字が、今朝もまた薄い壁をすり抜けて胸に刺さった。

母・幸枝は七十八歳。認知症の診断を受けてから三年が経つ。かつては手先が器用で、季節の花を活ける名人だった。珠緒が幼い頃、台所に立つ母の背中から漂ってくる味噌汁の香りが、世界のすべての安心を意味していた。その母が今は娘の顔を見て、見知らぬ他人に向けるような目をする。

珠緒は四十二歳、独身。出版社を辞めて故郷に戻り、介護の日々に入ってからもう二年になる。恋人もいた。夢もあった。書きたかった小説の原稿は、パソコンの中で埃を被ったまま眠っている。

「なぜ私だけが」

声に出さずに、心の中でつぶやく。この問いは、夜中に目が覚めるたびに枕元に座っていた。


第二章 執着という名の鎖

その日の午後、珠緒は母の古いアルバムを整理していた。幸枝がひとりで棚を漁って、写真を床にばらまいてしまったのだ。

四つ折りに折られた一枚の写真を広げると、若い男性が写っていた。見覚えのない顔。裏を返すと、「直樹 二十三歳」とだけ書かれている。

「お母さん、この人誰?」

珠緒が問うと、幸枝はその写真を見た瞬間、何かが変わった。濁っていた目の奥に、かすかな光が灯った。

「直樹……直樹は、死んだの」

幸枝の声が震えた。珠緒は初めて聞く名前だった。

断片的に、しかし驚くほど鮮明に、母は話し始めた。直樹は幸枝が二十歳のときに愛した男性で、事故で突然亡くなったこと。父と結婚したのはその後のことで、胸の奥にずっとその名前を隠していたこと。「忘れたかった。ずっと忘れたかった。でも忘れられなかった」と幸枝は繰り返した。

珠緒は息を呑んだ。

認知症が進んで多くのことを失っていく母が、五十年以上前の記憶だけは失っていない。いや、むしろ鮮明になっている。それはなぜなのか。

その夜、珠緒はスマートフォンで「認知症 記憶 スピリチュアル」と検索しながら、ある一節に目が止まった。

「執着の強い記憶は、波動として魂に刻まれる。忘れたいと思えば思うほど、その波動は増幅される」

珠緒は画面を閉じて、天井を見上げた。


第三章 燃える炎の正体

翌朝、珠緒は近所の小さな寺を訪れた。子供の頃から知っている住職、藤堂老師は八十歳を超えてもまだ背筋が伸びていた。

縁側に座って話を聞いた老師は、しばらく庭の枯れ木を眺めてから言った。

「味わいたくないと思うとき、人は何をしていると思う?」

珠緒は答えられなかった。

「その体験を、ぎゅっと抱きしめているんですよ。『嫌だ、嫌だ』と言いながら、絶対に手放さない。嫌なものほど、強く握ってしまう。それが執着というものの本質です」

老師は続けた。

「お母さんは直樹さんを忘れようとした。五十年間、忘れようとし続けた。その『忘れたい』という強烈な意志が、かえって記憶を魂の奥深くに焼き付けてしまった。認知症は多くのものを消していく。でも、魂に刻まれた波動だけは消えない」

珠緒の胸に、何かが崩れる音がした。

「では……母の苦しみは、忘れようとしたことが原因だったんですか」

「苦しみの原因は忘れようとしたことではなく、体験そのものを否定しようとしたことです。悲しみも、後悔も、愛おしさも、全部ひっくるめて『なかったことにしたい』と抗い続けた。その抵抗こそが、鎖になった」

老師は珠緒の目を見た。

「あなたもそうじゃないですか? 自分が失ったものを、なかったことにしたくて、ここへ来た」

珠緒の目から、気づかないうちに涙が流れていた。恋人のこと、小説の夢のこと、出版社で積み上げてきたもの。全部を「仕方なかった」と封印して、感じないようにしていた。感じれば、後悔の炎が燃え上がるから。

挿絵

しかしその炎は、封印するほどに地下で燃え続けていた。


第四章 波動がリセットされる朝

春になった頃、幸枝の状態が急に悪化した。

ある夜、珠緒は母の手を握って病院の廊下に座っていた。幸枝は眠っていた。点滴の管が白い腕に繋がれている。その手は、昔のように花を活けることも、娘の頭を撫でることも、もうできないかもしれない。

珠緒はその手を両手で包んで、初めて声に出して言った。

「直樹さんのこと、教えてくれてありがとう。お母さんが愛した人がいたこと、ちゃんと知れてよかった」

幸枝の眠った顔が、わずかに緩んだような気がした。

珠緒は続けた。

「私も……介護が辛いって、ずっと言えなかった。疲れたって、悲しいって。言ったら、お母さんを恨んでる悪い子みたいで。でも本当は、ずっと疲れてた。ずっと悲しかった」

声が詰まった。

「それでも、お母さんのそばにいたかった。それは本当のこと」

窓の外で、夜が白んでいた。春の夜明けは早い。

その朝、珠緒の中で何かが変わった。説明できない感覚だった。体が軽くなったとか、悟りを開いたとか、そういう劇的なことではない。ただ、長い間胸の中で鳴り続けていたあの問い――「なぜ私だけが」――が、静かに溶けていくような感覚があった。

執着は手放すものではない、と珠緒は思った。執着は、ただ感じるものだ。悲しみを悲しみとして受け取る。苦しみを苦しみとして抱く。抵抗をやめたとき、初めて波動は流れ始める。

なぜ波動だけがリセットされるのか。

それは、波動だけが嘘をつかないからだ。記憶は書き換えられる。言葉は飾られる。でも魂の振動だけは、正直に今を生きている。


第五章 鎖が解ける

退院した幸枝は、しばらく穏やかな日が続いた。

ある朝、縁側で日向ぼっこをしていた幸枝が、珠緒の手をそっと握った。

「あなた、いつもいてくれるのね」

娘だとわかっているのかどうか、珠緒にはわからない。でも幸枝の手の温かさは本物で、その言葉に含まれた感謝は本物だった。

珠緒はパソコンを開いた。長い間眠っていた原稿ファイルをクリックした。

書き出しの一行を書き直した。今の自分にしか書けない言葉で。

執着は消えない。悲しみも消えない。でも波動は、正直に今を生きることで、少しずつ変わっていく。


エピローグ

幸枝はその冬、静かに逝った。最後の三日間は、珠緒の顔をちゃんと見て、「珠緒」と呼んでくれた。

葬儀の後、珠緒はあの枯れ木が新芽を吹いている庭を眺めながら、母が語った断片を思い返した。五十年間封じ込められていた直樹という名前。忘れたくて、だからこそ忘れられなかった記憶。

認知症がすべての記憶を溶かしていっても、波動だけは残っていた。愛した、苦しんだ、後悔した、それでも生きた、その振動だけは、最後まで幸枝の中に灯っていた。

珠緒は小説を書き終えた。タイトルは「鎖」ではなく、「解ける」にした。

夜、原稿の最後のページに、一行だけ書き添えた。

味わいたくないと抗うとき、魂は最も深く、その体験を刻む。 なぜ波動だけがリセットされるのか。 それはきっと――すべてを味わい尽くしたとき、魂がようやく次へ進めるからだ。

窓の外で、星が静かに瞬いていた。


エピローグ

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ソウルミッション358

あなたの魂の物語を生きる