阿の声が聞こえる夜に

阿の声が聞こえる夜に
第一章 終わりのそばで
ホスピス病棟の廊下は、いつも静かだった。
看護師の橘春佳(たちばなはるか)は三十八歳。十二年間、この場所で働いてきた。死と向き合うことを職業にした女性は、しかし今夜、自分が何かに怯えていることに気づいていた。
「また来てくれたね」
六号室の老人――山際誠一(やまぎわせいいち)が、点滴の管につながれた腕をわずかに持ち上げた。八十二歳。肺がんの末期。余命はもう、指で数えられるほどだと医師は言っていた。
「山際さん、今日は少し顔色がいいですね」 「嘘をつくのが上手になったね、春佳さんは」
老人は笑った。歯が抜けて細くなった口元が、それでも不思議な温かみを持っていた。
春佳は苦笑いして、体温計を取り出した。窓の外には十一月の夜空が広がり、東京の光が雲の底を橙色に染めていた。
「体が重くてね」と老人は言った。「でも不思議と怖くはないんだ。若い頃は、死ぬのが怖くて怖くて、それで……ずいぶん無駄なことをしてきた」
春佳は答えなかった。代わりに、ゆっくりとした手つきで老人の脈を確かめた。
「春佳さんは、何か諦めたことはあるかい?」
突然の問いに、彼女の指が止まった。
第二章 執着という名の鎖
二十歳のとき、春佳はピアニストになりたかった。
音楽大学に合格していた。奨学金の申請も通っていた。なのに父親の一言が、すべてを変えた。「音楽で食える人間なんて、一万人に一人もいない」。その言葉が、春佳の中でいつの間にか自分の声になり、自分の信念になり、自分の人生になった。
看護師になったことを後悔していたわけではない。でも、あのグランドピアノの前に座ったとき感じた、あの震えるような喜びを、春佳はずっと心の奥の棚にしまったままにしていた。
「ありますよ」と春佳は静かに言った。「ピアノを」
老人は天井を見上げた。
「私もそうだった。商社マンの父に言われたまま、経済学部に進んでね。本当は数学者になりたかったんだ。宇宙の構造を解き明かしたくてね。でも諦めた。そのままサラリーマンになって、結婚して、子供を育てて……それが正しかったのか間違っていたのか、長い間ずっと悩んでいた」
「今は?」
「今は、どちらでもよかったと思っている」
老人の目が、星を見るような輝きを持った。
「良い悪いなんて、後から貼るラベルに過ぎない。私が数学者にならなかったから、今の私の子供たちがいる。私が春佳さんのお父さんに従わなかったら、今夜ここで君に看取ってもらうこともなかった。どの道を選んでも、それはすべて……設計されていた道だったんじゃないかと思うんだよ」
春佳は黙って聞いていた。
「執着というのはね」と老人は続けた。「自分が本当はこうあるべきだったという幻想に、鎖でつながれることだよ。私は長い間、別の人生に引きずられていた。でも、ある朝目が覚めたら――もう鎖がなかった」
「どうして?」
「体が弱ってきてから、不思議と軽くなってね。体が薄くなるにつれて、余計なものが落ちていく。残るのは、大切なものだけだ」
第三章 身体がなくなっても
老人が逝ったのは、その三日後の明け方だった。
春佳が当直の夜だった。午前四時過ぎ、六号室のモニターが静かに鳴り始めた。駆けつけると、山際誠一は目を閉じ、穏やかな表情で横たわっていた。
春佳は医師を呼び、必要な処置をした。それが仕事だった。
でもその夜、退勤後に病院の屋上に出た春佳は、何かを感じた。
うまく言葉にはできない。でも確かに感じた。空気の中に、老人の笑い声のようなものが混じっているような気がした。あの「歯の抜けた、温かみのある笑い」が、どこかに溶け込んでいるようだった。
春佳は東の空を見た。夜明けがゆっくりと広がっていた。
体が消えても、何かが残る。それは霊魂とか来世とか、そういう言葉で括れるものではなかった。もっと単純な、もっと根っこに近い何か。存在した、という事実。感じた、という記憶。それが空気に、光に、他者の心に織り込まれて、消えずに残っていく。
「阿の世」という言葉を、春佳はふと思い出した。仏教では「阿(あ)」は宇宙の始まりの音だという。あらゆるものが生まれる前の、根源の声。
老人は今頃、そこへ帰っていったのかもしれない。
そう思ったとき、春佳の胸に、涙ではなく、静かな温もりが満ちてきた。

第四章 シナリオを変える夜
その週末、春佳は十八年ぶりにピアノの鍵盤に触れた。
母の実家に残されていた古いアップライトピアノ。調律もされていない、くすんだ白鍵。それでも指が覚えていた。ショパンのノクターン、第二番。二十歳のとき、入試で弾いた曲。
最初はぎこちなかった。指が固く、テンポも崩れた。でも三度、四度と繰り返すうちに、何かがほぐれてきた。
泣いているのか笑っているのか、春佳自身にもわからないまま弾き続けた。
ピアニストになるつもりはもうなかった。それが現実で、それでいいと思っていた。でも今まで「音楽で食えないから」という鎖につながれて、弾くことさえ自分に禁じていた。
好きだったのに。ただ、好きだったのに。
老人の言葉が蘇った。「執着というのは、自分が本当はこうあるべきだったという幻想に、鎖でつながれることだよ」。
諦めた夢に執着することも、鎖だった。「あのとき従わなければよかった」という後悔も、鎖だった。そして「もうピアノを弾いてはいけない」という思い込みも、見えない鎖だった。
春佳はすべての鎖が、一本また一本と解けていくような気がした。
今から音大に入り直す必要はない。今から演奏家を目指す必要もない。ただ、弾きたいから弾く。心が動くから動く。それだけでいい。
シナリオを変える。でもそれもまた、ずっと前から設計されていたことなのかもしれない。
十八年越しの帰還も、山際誠一との出会いも、この古いピアノとの再会も。すべてが、ちゃんと繋がっていた。
第五章 心のまま
それから春佳は、月に二度、地域の老人ホームでボランティア演奏を始めた。
プロではない。上手くもない。でも弾くたびに、聴いている老人たちの顔が柔らかくなる。涙を流す人もいる。遠くを見つめる人もいる。
ある日、演奏後に一人の老婆が春佳の手を握った。
「あなたのピアノ、亡くなった主人みたいな音がするわ」
春佳はその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。でも帰り道、夜風の中でふと思った。
もしかしたら音楽とは、そういうものなのかもしれない。体がなくなっても残るもの。言葉では届かない場所へ届くもの。阿の世と、この世をつなぐ、細い細い橋のようなもの。
そして春佳は今、あれこれと悩まなくなった。自分の選択が正しいかどうか、他人からどう見られるか、もっとうまくやれたのではないか――そういった声が、以前より静かになっていた。
心が動く方向へ進む。それだけのことが、なんと難しく、なんと単純だったか。
エピローグ
桜が散り始めた四月の夜、春佳は屋上に出てまた東の空を見た。
老人が逝ってから五ヶ月。山際誠一の名前を、春佳は毎日どこかで思い出していた。
風が吹いた。桜の花びらが空に舞い上がり、光の中に溶けていった。
――阿の世へ続く道がある、と老人は言わなかった。でも春佳には今、その道がほんの少しだけ見える気がした。
良い悪いはない。 自身で描く未来がある。
変えるシナリオも、それもまた設計の中にある。
あれこれ悩まず、心のまま進め。
その言葉は、誰かに言われた言葉ではなかった。もっと古い場所から、もっと深い場所から、ずっと聞こえていた声だった。
春佳はゆっくりと目を閉じ、夜風の中に立っていた。
体がなくなっても、きっとこの感覚は残る。
この、生きているという震え。 この、繋がっているという静けさ。 この、心が動くという奇跡。
桜の花びらが一枚、春佳の掌に舞い降りて、すぐに風に返っていった。
それでよかった。それで、十分だった。
了

アマリエの物語の続きがここに
あなたの魂の物語を生きる