どちらでもいい、と空は言った

どちらでもいい、と空は言った
第一章 原因という名の迷宮
田中澪が三十二歳になった春、彼女の人生はほつれ始めた。
七年間勤めた出版社を早期退職することになったのは、会社の業績悪化が表向きの理由だった。しかし澪はそこに別の何かを探し続けた。あの会議での発言が余計だったのか。上司との関係が影響したのか。もっと早く動いていれば、違う選択をしていれば——。
同じ頃、三年付き合った恋人の健司とも別れた。「お互いのために」という言葉で締めくくられた最後の夜、澪は何度も問い返した。「どうして? どこで間違えたの?」健司は答えなかった。いや、答えられなかったのかもしれない。澪にはそれが許せなかった。
理由のない出来事など、この世に存在しないはずだった。
澪はジャーナリストとして十年近く、あらゆる現象の原因と結果を追い続けてきた。事実の積み重ねが真実を作る。そう信じてペンを走らせてきた。だからこそ、自分の人生に「説明のつかないこと」が起きると、まるで論理の床が抜けるような恐怖に陥った。
四月の終わり、澪は東京郊外の実家に戻り、毎日ノートにこう書き続けた。
なぜこうなったのか。どこに原因があるのか。誰が悪いのか。私が悪いのか。
答えは来なかった。ノートだけが厚くなった。
第二章 雨上がりの公園
五月の第一週、久しぶりに外へ出た。
家から十分ほど歩いた公園は、前日の雨でしっとりと濡れていた。ベンチに座ると、濡れた木の匂いが鼻をついた。澪は何も考えまいとしたが、脳はすぐに「なぜ外に出たのか」「ここに来る意味はあるのか」と問いかけてくる。
隣のベンチに、小さな老婆が座っていた。
七十代か、あるいは八十代か。白髪を後ろで束ね、薄いグレーのカーディガンを羽織っている。膝の上に文庫本を開いているが、読んでいるわけではなく、空を見上げていた。
澪はその横顔に、不思議な静けさを感じた。
「いい空ですね」
老婆が言った。澪に向けてではなく、空に向けて言ったように聞こえた。
「……そうですね」
澪は反射的に答えた。雲が切れ始め、薄い光が芝生に差し込んでいた。
「雨が降った後の空は、何かを洗い流してくれた気がして好きなんです」
老婆は微笑みながら言った。その言葉が、なぜか澪の胸に小さな棘のように刺さった。
「洗い流した、と思うのは……気のせいじゃないですか」
我ながら意地の悪い問い方だと思いながら、澪は続けた。「科学的には、ただ雨粒が汚れを落としているだけで」
老婆は澪を見た。責める目ではなく、懐かしいものを見るような目だった。
「そうかもしれませんね。でも、私はどちらでもいいと思っています」
「どちらでもいい?」
「偶然の雨であっても、必然の雨であっても、空が綺麗なことに変わりはないでしょう」
第三章 感情という贈り物
老婆は島田栄子と名乗った。かつて小学校の教師をしていたという。
澪は気づけば自分のことを話していた。仕事のこと。健司のこと。原因を探し続けて疲れ果てた、という話を。栄子はただ聞いていた。相槌を打つわけでも、慰めるわけでもなく、ただ聞いた。
「つらいですね」
しばらく経って、栄子はそう言った。
「はい」
「今、どんな気持ちがしますか」
「……怒っています。自分に。誰かに。うまく言えないけど」
「その怒りは、本物ですか」
澪は少し考えた。「本物です」
「では、それでいいじゃないですか」
栄子の声は穏やかだった。「怒っているなら怒っている。悲しいなら悲しい。その感情が、なぜ生まれたかを分析する前に——今ここにある感情を、まず受け取ることはできますか」
「でも、原因がわからないと……」
「原因がわかったら、感情が消えますか?」
澪は口をつぐんだ。
「私も若い頃、夫を突然亡くしました」栄子は静かに言った。「事故でした。なぜあの日、なぜあの道を、なぜ——と考え続けました。三年ほど、ずっと」
「……それで、答えは見つかりましたか」
「いいえ」栄子は首を横に振った。「でも、ある朝気がついたんです。私が探しているのは答えではなく、悲しみをどこかに置いてきてもいいという、許可だったのだと」
澪の目が、じわりと熱くなった。
「原因がわかれば、納得できると思っていた。納得できれば、前に進めると思っていた。でも本当は——答えを探すふりをして、悲しみの中に留まることを選んでいたんです」
風が吹いた。木々がざわりと揺れた。
「どちらでもいいというのは」栄子は続けた。「あきらめではないんです。偶然でも必然でも、その出来事はもう起きた。今ここにある感情は、本物だ。それを丸ごと受け取った上で、次の一歩を踏み出す——それが、余裕というものかもしれません」
第四章 解釈という自由
家に帰った澪は、厚くなったノートを開いた。
びっしり書かれた「なぜ」の言葉たち。それはまるで、迷宮の地図だった。入り口から歩き続けているのに、どこにも出口がない地図。
澪はペンを取り、新しいページを開いた。
そして、こう書いた。
仕事がなくなった。それは事実だ。 健司とわかれた。それも事実だ。 今、私は怒っている。悲しい。疲れている。それも事実だ。
書いていくうちに、不思議なことが起きた。
胸の奥で何かがほどけていく感覚があった。糸が、ゆっくりと解けていくような。原因を探していたのは、感情に意味を与えて、それを「正当化」したかったからかもしれない。怒っていいんだ、と誰かに証明したかったのかもしれない。悲しんでいいんだ、と。
でも、感情は証明を必要としない。
怒りは、ただそこにある。悲しみも、ただそこにある。
澪はノートを閉じ、窓を開けた。夕暮れの空が、橙色に染まっていた。
偶然にこんな色になったのか。必然でこうなったのか。
どちらでもいい、と澪は初めて思った。
空は、どちらでもいいと言いながら、ただそこに広がっていた。美しかった。それだけで、十分だった。
第五章 余白のある朝
翌週、澪は小さなカフェでアルバイトを始めた。出版社での経験を活かした再就職を焦る気持ちがないといえば嘘になる。でも、今は少し、余白が必要だと思った。
コーヒーを淹れながら、澪は客の顔をよく見るようになった。疲れた顔、楽しそうな顔、泣きそうな顔。それぞれがそれぞれの「今」を生きている。
ある日、常連の中年男性が言った。「このカフェに入ったのは偶然だったんだけど、すごく居心地がいいんですよ」
澪は微笑んだ。「偶然でも、居心地がいいことに変わりはないですよね」
男性は少し驚いた顔をして、それからにっこりした。「そうですね」
公園で栄子と交わした言葉が、澪の中に静かに根を張りつつあった。
解釈は、自分に委ねられている。
あの別れが必然だったのか偶然だったのかは、今の澪にはわからない。わからないまま、生きていけると、今は思える。わかることよりも、感じることの方が大切な瞬間がある——そのことに、ようやく気づき始めていた。
エピローグ
秋になって、澪は栄子に手紙を書いた。
連絡先は聞いていなかったから、手紙の行き先はなかった。それでも書きたくて、書いた。
あの日、公園で出会えたことが、偶然なのか必然なのか、私にはわかりません。でも、どちらでもいいと今は思います。出会いがあった、それだけで十分です。あなたが教えてくれたように——今ある感情を受け入れる強さを、少しずつ育てています。
手紙を書き終えて、澪は窓の外を見た。
イチョウの葉が、風に舞っている。落ちていく葉を見て、澪は思う。あの葉は、偶然あの方向に落ちているのか。それとも、何か理由があるのか。
どちらでもいい。
葉は美しく、風は穏やかで、空は高い。
目の前に広がる現象を、ただ受け取ること。その余裕が、何かに近づく道なのかもしれない——「真実」と呼ぶにはおこがましいけれど、少なくとも、自分らしく生きることへの近道なのだと、澪は静かに確信していた。
風が吹いた。イチョウがまた揺れた。
どちらでもいい、と空は言った。
アマリエの物語の続きがここに
あなたの魂の物語を生きる