← Stories に戻る

諦めの花

諦めの花

諦めの花

第一章 灰色の朝

田中誠一が余命六ヶ月の告知を受けたのは、桜が散り始めた四月の午後だった。

五十三歳。膵臓癌。ステージ四。

医師の言葉は、診察室の白い壁に貼り付いたまま、なかなか誠一の耳に届かなかった。窓の外では雨が降り始めていた。アスファルトを叩く雨音だけが、やけにはっきりと聞こえた。

帰り道、誠一は傘も差さずに歩いた。スーツが濡れるのも構わず、ただ足を動かした。三十年近く勤めた印刷会社の部長職、来春には役員昇進の話も出ていた。息子の大学進学、妻との老後の旅行計画。そういったものが、雨の中でゆっくりと溶けていくような感覚があった。

怒りはなかった。不思議なほど、怒りがなかった。

あったのは、ただ、途方もない疲労感だった。

その夜、誠一は自分の書斎に一人こもり、机の引き出しから一冊のノートを取り出した。二十代の頃、禅の本を読み漁っていた時期に書き留めた言葉たちが、黄ばんだページに並んでいた。「生死事大」。「本来無一物」。「日々是好日」。若い頃の自分が、それらの言葉に何を求めていたのか、今となってはもう思い出せなかった。

誠一は窓の外の雨を見た。

悟りの道は遠い、とどこかで読んだことがある。おそらく自分には、もう時間が足りない。


妻の由美子には三日後に打ち明けた。息子の拓海には、まだ言えなかった。大学受験を控えた十八歳の息子に、今この話をすることが正しいのかどうか、誠一にはわからなかった。

由美子は泣いた。声を押し殺して、台所で一人泣いていた。誠一はその背中を見ながら、何も言えなかった。慰める言葉を持っていなかった。自分自身がまだ、この現実を飲み込めていなかったから。

第二章 諦めという言葉の意味

抗癌治療を始めて二ヶ月が過ぎた頃、誠一は偶然、一人の老人と出会った。

病院の待合室だった。余命告知を受けてからというもの、誠一は本を読まなくなっていた。スマートフォンを眺める気力もなかった。ただ椅子に座り、呼ばれるのを待っていた。

隣に座った老人は、七十代後半だろうか。白髪で、背筋がまっすぐ伸びていた。膝の上に文庫本を置いていたが、読んでいるのではなく、ただ静かに前を向いていた。

「辛そうですね」

老人が、突然そう言った。誠一のことを見もせずに。

「ええ、まあ」と誠一は答えた。

「治療ですか」

「はい」

しばらく沈黙があった。老人は前を向いたまま、静かに言った。

「諦める、という言葉はね、本来は『明らかにする』という意味なんですよ」

誠一は老人の横顔を見た。

「物事を明らかに見る。現象をありのままに受け取る。それが本来の『諦め』なんです。あなた方の世代では、諦めというと負けることのように思うでしょうが」

老人はそこで初めて、誠一の方を向いた。深い皺の奥に、穏やかな目があった。

「見えていないものを見ようとするより、見えているものを、ちゃんと見る。それだけで、随分と楽になりますよ」

名前も聞かなかった。老人は程なく名前を呼ばれ、立ち上がり、振り返ることなく診察室の奥へと消えていった。

誠一はその後、長い時間をかけて老人の言葉を反芻した。

諦め、とは明らかにすること。

自分はいま、何を見ようとしていないのだろうか。

第三章 現象を見る

梅雨が明け、夏が来た。

誠一は会社を休職した。治療と体力の問題もあったが、何より、残された時間を別のことに使いたいという気持ちが芽生えていた。

彼は毎朝、近所の小さな公園に散歩に出るようになった。抗癌剤の副作用で体は重く、以前の半分も歩けなかった。それでも、一歩一歩、足を前に出した。

公園には、樹齢百年近いという欅の木があった。誠一はその木の根元のベンチに座り、時間をかけて木を見上げた。夏の光の中で、無数の葉が揺れていた。

ある朝、誠一はふと気づいた。

自分はこれまで、どれだけの朝を見過ごしてきたのだろう。通勤電車の中でスマートフォンを眺め、会議の資料を頭の中で整理し、部下への指示を考えながら、目の前の景色を何一つ見ていなかった。妻が夕食に何を作っていたか、息子の笑い方がいつ頃から変わったか、そういったことを何も知らなかった。

生きていたが、見ていなかった。

死を告知されて初めて、目の前の現象が輪郭を持って見え始めた。

欅の葉の一枚一枚が、光を受けて微妙に違う色をしていること。風の通り道によって、葉の揺れ方が異なること。そのすべてが、何百年も前から繰り返されてきた現象であること。

挿絵

誠一は泣いた。声もなく、ただ涙が流れた。悲しいからではなかった。何か大きなものに触れたような、胸の奥が震えるような感覚だった。

その日の夕方、誠一は初めて息子の拓海に話した。

拓海は黙って聞いていた。泣くかと思ったが、泣かなかった。しばらくして、「父さんは今、怖い?」と聞いた。

誠一は少し考えた。

「怖くない、とは言えない。でも、不思議と今は、それより先に見たいものがたくさんある」

拓海は何も言わなかったが、その夜、誠一の部屋のドアをノックして、黙って隣に座った。二人はしばらく、何も話さずに並んでいた。

第四章 いずれ死ぬ定め

秋になった。欅の葉が赤く染まり始めた頃、主治医から告げられた。「思ったより進行が早い。年内に、と覚悟を」

誠一はその夜、一人で書斎に座り、ノートを開いた。若い頃の禅の言葉たちが並ぶ黄ばんだページを過ぎ、新しいページを開いた。ペンを取り、ゆっくりと書き始めた。

死ぬまで生き抜く

書いてみると、当たり前の言葉だった。しかしその当たり前が、今の誠一にはひどく鮮烈だった。

死ぬことは決まっている。それは診断の前から決まっていた。人間は必ず死ぬ。ただそれが、六ヶ月先だと知らされているか、知らないかの違いだけで。

だとすれば、恐れることは何もない。

いや、それは嘘だ。恐れはある。由美子を残すことへの申し訳なさ、拓海の未来を見届けられないことへの悔しさ、それらは消えない。消そうとも思わない。

ただ、その恐れや悔しさも含めて、今ここにある自分の現象として、明らかに見ること。それが誠一に残された、唯一の道のように思えた。

十月の末日、誠一は由美子と二人で、若い頃に一度だけ訪れた山寺を再訪した。紅葉が盛りで、境内は燃えるように赤かった。

参道を歩きながら、由美子が誠一の手を握った。

「きれいね」

「きれいだな」

それだけでよかった。それだけで、十分だった。

本堂の前で、誠一は長い時間手を合わせた。何かを願うのではなく、ただ、在ることへの感謝のような気持ちで。

山を下りる頃、夕日が山の端に沈もうとしていた。

誠一は立ち止まり、その光を見た。

長い旅路の終わりに、ようやく家に帰り着くような。そんな安堵が、胸の奥から静かに広がってきた。

エピローグ 諦めの花

田中誠一は、十二月の初雪が降った朝、自宅で静かに息を引き取った。

枕元には、妻と息子がいた。

書斎の机の上には、最後まで書き続けたノートが置かれていた。最後のページには、こんな言葉が残されていた。


諦めるとは、逃げることではない。 明らかに見ることだ。 この世界に生まれ、 この体を持ち、 この人たちと出会い、 この光の中を歩いたことを、 ありのままに見ること。

悟りの道がどこにあるのかは、最後までわからなかった。 しかし、諦めることの中に、 何か途方もなく広い場所があることを、 私は知った。


翌春、拓海は大学に合格した。

由美子は一人で山寺を訪れ、紅葉の季節ではなかったけれど、境内の片隅に小さな白い花が咲いているのを見つけた。

花の名前を由美子は知らなかった。

しかしその花は、何も求めるでもなく、ただそこに在った。

風が吹いて、花びらが揺れた。

由美子はしばらくその花を見ていた。誠一がいつか言っていた言葉を思い出しながら。

「諦めることこそ、至高の領域へと続く道なのかもしれない」

花びらが一枚、風に乗って空へと上がっていった。

青い空の中で、それはどこまでも、どこまでも昇っていった。

エピローグ

Twin Ray Clubで続きを読む

アマリエの物語の続きがここに

ソウルミッション358

あなたの魂の物語を生きる