星の記憶を抱いた島

星の記憶を抱いた島
第一章 灰色の都市、疲れた魂
十一月の東京は、いつもより早く夜が来る。
宮本美咲は、終電一本前の山手線の中で、吊り革に体を預けたまま目を閉じていた。三十七歳。緩和ケア病棟に勤める看護師。今日も三人の患者を看取った。その手のぬくもりが、まだ掌に残っている気がした。
死は、彼女にとって日常だった。しかし日常である、ということは、慣れた、ということではない。むしろその逆で、看取るたびに何かが少しずつ削れていく感覚があった。魂の、薄皮が一枚ずつ剥がれていくような。
アパートに帰り、コートも脱がずにソファに倒れ込んだ。天井の染みを見つめながら、美咲はぼんやりと思った。
私は、いったい何のためにここにいるのだろう。
その問いは以前から胸の中にあったが、この夜は特別に重かった。今日の最後の患者、八十二歳の田中老人が逝く間際に言った言葉が、まだ耳の奥で鳴り続けていた。
「宮本さん……星が、見えるよ。綺麗だ。こんなに近くにあったのか」
老人はそう言って微笑み、そのまま静かに息を引き取った。美咲には何も見えなかった。ただ、病室の蛍光灯の白い光と、心電図の平坦な線だけがあった。
彼女はスマートフォンを手に取り、何をするでもなくSNSを流し見したあと、ふと一つのメッセージに目が止まった。高校の同級生、沖縄に移住した由紀子からだった。
「美咲、元気?来月、島においでよ。何かに疲れたとき、この海が全部洗ってくれるから」
第二章 波打ち際の声
沖縄本島から船で四十分ほどの小さな島に、美咲は三日間の休暇を使って来ていた。
由紀子が言っていた通り、海の色は非現実的なほど青かった。エメラルドグリーンとターコイズの間で揺れる水面は、東京の灰色とはまるで別の惑星の景色に見えた。
到着した翌朝、美咲は一人で浜辺に出た。夜明け前の空はまだ暗く、星が消えかけていた。砂の上に腰を下ろし、波の音を聞いているうちに、ふいに涙が出てきた。
理由はわからなかった。ただ、何かが緩んでいく感じがした。ずっと張り詰めていた何かが、波の音とともにほどけていくような。
泣きながら空を見上げると、地平線の向こうから光が少しずつ差し始めていた。その光の中に、奇妙なものを見た。いや、見た、という言葉が正しいかどうかわからない。感じた、と言う方が近かった。
光の中に、光があった。
太陽とは別の、青白い柔らかい光。それは一点から広がるでも、特定の場所から来るでもなく、空全体が内側から輝くような光だった。美咲は立ち上がることも、逃げることもできなかった。ただ、その光に包まれながら、全身が温かくなっていくのを感じた。
そして、聞こえた。
声ではなかった。音でもなかった。それは言葉として、しかし耳ではなく、胸の奥に直接届くものだった。
――覚えているか。お前が、ここへ来た理由を。
第三章 宇宙の記憶が語るもの
美咲は夢を見ていた。いや、夢ではなかった。あまりにも鮮明すぎた。
彼女は宇宙の中にいた。無数の星が、あらゆる方向に広がっていた。そのスケールは想像を絶するものだったが、不思議と恐怖はなかった。むしろ、深い懐かしさがあった。
遠くに、青い惑星が見えた。地球だとわかった。
その惑星は、傷ついていた。人間の行いによる傷、忘れることによる傷、愛を失うことによる傷。それは美咲の目に、痛みとして映った。
そして彼女は理解した。言葉にならない理解として、全身で受け取った。
自分は、ここへ癒やしのために来た。
看護師になったのは偶然ではなかった。人の死の傍にいることを選んだのも、偶然ではなかった。彼女の魂は、はるか遠い何処か——人間の言葉では表せない場所から——この地球という惑星へ、意図を持って降り立っていた。浄化のために。光を運ぶために。
田中老人が逝く間際に見た「星」は、死の幻覚ではなかった。それは本物の光だった。美咲が彼の傍に寄り添っていたから、その光は彼のもとへ届いたのだ。
美咲は今まで、自分が「何かを失いながら働いている」と思っていた。しかし違った。彼女は光を放っていた。疲れを感じるのは、それだけの光を与えていたからだった。
ビジョンの中で、無数の存在が彼女を取り囲んでいた。形はなかった。しかし確かにそこにあった。美咲はそれらが、人間ではない何かであることを知っていた。地球を、そしてそこに生きる魂たちを、はるか遠くから見守っている存在たちだった。
その存在たちは、何も言わなかった。ただ、感謝を送ってきた。
感謝、というものがエネルギーとして伝わってくる体験を、美咲はうまく言語化できなかった。あとで由紀子にそれを話そうとして、何度も言葉に詰まった。ただ、全身の細胞が、光の粒になるような感覚だった、とだけ言えた。

第四章 地球に祈る、地球から祈る
浜辺に戻ったとき、太陽はすでに海の上に昇っていた。
美咲の頬に、風が触れた。潮の匂いがした。足の裏に、砂の冷たさと温かさが混ざり合って伝わってきた。
——地球は、生きている。
それは知識としてではなく、実感として降りてきた。この惑星は単なる岩と水の塊ではない。それ自体が意識を持ち、記憶を持ち、そして傷を持つ存在だ。そしてそこに生きるすべての魂は、何らかの使命を持ってここへやって来た旅人たちだ。
美咲は砂の上にゆっくりとひざまずき、両手を地面についた。
冷たかった。しかし、その冷たさの奥に、微かな温もりを感じた。鼓動のような、呼吸のような、何か生きているものの気配。
「ありがとう」
声に出すつもりはなかった。しかし言葉は自然に口から出ていた。誰に向けているのかわからない祈りだった。地球に対して、あの光の存在たちに対して、田中老人に対して、そして自分自身の魂に対して。
「私は、ここへ来てよかった。地球へ来てよかった。もう少し、ここにいさせてください」
涙が一滴、砂に落ちた。
その瞬間、遠くでカモメが一羽、高く鳴いた。
由紀子が背後から近づいてきた気配がした。
「起きてたんだ」由紀子は静かに美咲の隣に腰を下ろした。「どうだった、海は」
美咲はしばらく黙っていた。それから、笑った。久しぶりの、力が抜けた笑いだった。
「全部、教えてもらった」
「何を?」
「忘れてたこと、全部」
エピローグ 光を運ぶ者たちへ
東京に戻ってから一週間後、美咲は新しい患者を担当した。四十代の女性で、末期がんを告知されたばかりだった。目に恐怖と混乱を浮かべ、美咲が病室に入ったとき、壁の方を向いたまま何も言わなかった。
美咲はただ、その傍に座った。何も言わなかった。ただそこにいた。
しばらくして、女性が振り向いた。
「あなた……なんか、光ってる」
美咲は微笑んだ。
「そうかもしれません」
病室の窓の外で、冬の夕陽が雲を染めていた。赤とオレンジと、その奥の深い紺色。どこかで誰かが、はるか彼方からその空を眺めていると、美咲は知っていた。
宇宙のどこかにある惑星から、感謝を込めて、今日もこの地球へ光が届いている。人には見えない光が、誰かの手を通じて、誰かの魂へ届いている。
それは祈りだった。遠い宇宙からの、途切れることのない祈りだった。
そして美咲もまた、その祈りの一部だった。
疲れても、削れても、それでも傍にいることをやめない。その行為そのものが、光だった。浄化だった。この惑星が、少しずつ癒えていくための、小さくて確かな一歩だった。
宇宙の一つの惑星、 地球の記憶を辿る。
浄化のため降り立つ 癒やしの光を放つ。
窓の外の夕陽が、最後の輝きを放って沈んでいく。
病室に、静かな夜が来た。
了

アマリエの物語の続きがここに
あなたの魂の物語を生きる