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偶然という名の川

偶然という名の川

偶然という名の川


第一章 止まった時計

東京・世田谷区の古い木造アパートの一室。午前三時、桐島奈緒(きりしまなお)は眠れないまま天井を見つめていた。

三十二歳。転職を繰り返し、今の会社に入って六年。ようやく主任に昇格した矢先、突然のリストラ通知。しかも、婚約していた男から「やっぱり結婚は難しい」と告げられたのが同じ週だった。

奈緒はスマートフォンを手に取り、削除する気にもなれないまま、元婚約者との写真を何枚もスクロールした。笑顔が並んでいる。本物の笑顔だったはずなのに、なぜこうなったのか。

「どうして」

その言葉は暗い天井に溶けて消えた。

翌朝、奈緒は何も考えないようにしながら近所の多摩川の土手を歩いた。六月初旬、梅雨の晴れ間で空は澄んでいたが、奈緒の内側はどこまでも曇っていた。川沿いの遊歩道を歩きながら、彼女はふと立ち止まった。

川が、流れていた。

当たり前のことなのに、それが妙に目に刺さった。どこから来て、どこへ行くのか知れない水が、ただ淡々と流れている。昨日と同じ川幅、同じ橋、同じ土手なのに、その水は一滴たりとも昨日と同じではない。

奈緒はしばらく、ただ川を見ていた。


第二章 老人と石

土手のベンチに、白髪の老人が座っていた。

七十代後半だろうか。作務衣のような藍色の上着を着て、手のひらに小さな川石を乗せてじっと見つめている。奈緒がすぐ隣のベンチに腰を下ろすと、老人は顔を上げずに言った。

「どこから流れてきたんだろうと思ってな」

奈緒は一瞬、自分に話しかけられているのか分からなかった。

「その石ですか?」

「そう」老人は穏やかに笑った。「この石は、もともとずっと山の中にいたんだ。それが長い年月をかけて、川に削られて、転がされて、ここまで来た。本人は来ようと思ってここに来たわけじゃない。ただ流れに任せていたら、今ここにいる」

奈緒は黙って聞いていた。

「あなたも何か流されてきたね」

老人はそう言った。断定ではなく、確認するような柔らかな口調だった。

「……仕事と、婚約と、両方なくしました」

初対面の老人にそんなことを話す自分に奈緒は驚いたが、止められなかった。

「同じ週に」

「そりゃあ、大波だったね」老人は川に目を戻した。「怖かったろう」

「怖いより、意味が分からなくて。なんで全部同時に崩れるんだろうって」

「川ってね」老人はゆっくりと言葉を選んだ。「合流するときと、分かれるとき、両方あるんだよ。大きな石にぶつかると、急に二股に分かれることがある。あなたは今、そういう場所にいるんじゃないかな」

老人は立ち上がり、石をそっと川に返した。石は水面に落ちて、波紋を広げ、沈んだ。

「また旅を続けるといい」

老人は奈緒に小さく頭を下げて、歩き去った。名前も聞かなかった。でも奈緒は、長い間その場所を離れられなかった。


第三章 偶然の地図

それから二週間、奈緒は失業給付の手続きをしながら、何をしたいのか分からないまま日々を過ごした。

ある日、ハローワークの帰り道、雨に降られて飛び込んだ古書店で一冊の本を手に取った。背表紙に「川と魂の哲学」とあった。著者名は聞いたことがない。何となく買って帰り、その夜読み始めたら止まらなくなった。

本の中にこんな一節があった。

——魂は目的地を持たない。ただ流れることが、魂の本質である。私たちが「失った」と思うものは、実は魂が次の流れのために手放したものかもしれない——

奈緒はその一節に赤いペンで線を引き、しばらくぼんやりとその言葉の重みを感じていた。

翌週、求人サイトを眺めていた奈緒の目にとある求人が止まった。NPO法人「川の学校」——多摩川流域で子どもたちに自然体験を提供する団体のスタッフ募集だった。正社員ではなく、契約社員。給与は前職より低い。

普通なら閉じるところだった。

でも奈緒の指は、応募ボタンを押していた。

後から思えば、それは計算ではなかった。川のベンチの老人のことが、脳裏に浮かんだだけだ。


第四章 川の子どもたち

挿絵

面接は通った。

七月から奈緒は「川の学校」で働き始めた。週に三日、多摩川の河川敷で小学生たちと生き物観察をしたり、川の水質を調べたりするプログラムの補助スタッフとして。

最初の日、長靴を履いて川に入ったとき、奈緒は笑ってしまった。冷たくて、不安定で、泥がぬるりとして、それでも子どもたちはきゃあきゃあ言いながら夢中で石を裏返している。

「先生! ヤゴいた!」

男の子が叫んだ。泥だらけの手に、細いトンボの幼虫がいた。

「ヤゴってね」奈緒はしゃがんで言った。「水の中でずっと生きてて、ある日突然羽が生えて空を飛ぶんだよ」

「なんで急に?」

「分からない。でも準備ができたとき、自然にそうなるんだって」

男の子はヤゴをまじまじと見つめた。奈緒もまた、そのヤゴを見つめながら、胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。

八月の終わり、奈緒は団体の代表・田所恵介(たどころけいすけ)から「来年度から正規雇用で来ないか」と言われた。三十三歳、川のそばで働く自分を、半年前には想像もできなかった。

「返事は急がなくていい」田所は言った。「川はどこにでも流れ着くから」

奈緒は笑った。久しぶりに、腹の底から笑った。


第五章 石の行方

秋になった。

奈緒は土手のベンチにまた来た。あの老人を探しているわけではなかったが、来たくなった場所に来るのは自然なことだった。

川は変わらず流れていた。六月とは水位も違い、光の角度も違う。でも確かに同じ川だった。

ベンチに座って奈緒は小さなノートを開いた。最近、思ったことを書くようにしていた。その日、彼女は川を見ながらこう書いた。

 偶然という名の川の流れに身を任せ、見える景色さえ変わりゆくものだと知ったとき、私は初めて自分の足で立てた気がした。諦めたのではない。受け入れたのだ。

ペンを置いて、奈緒は川面に映る空を見た。雲が流れていく。一つとして同じ形の雲はなく、止まっている雲もなく、それでも空は空だった。

あの老人は誰だったんだろう、とふと思った。名前も知らない。また会えるかどうかも分からない。

でもそれでいい、と思った。

川の流れの中では、出会いも別れも、岩も急流も、みんな旅の一部だ。意味を問うより先に、流れの中にいることそのものが、生きているということなのかもしれない。

奈緒は深呼吸した。

多摩川の風が頬を撫でた。


エピローグ

翌春、奈緒は「川の学校」の正規スタッフになった。

入社初日、田所から「何か座右の銘とかある?」と聞かれた。奈緒はしばらく考えて言った。

「魂の旅路では、それもまた一興、ですかね」

田所は首をかしげた。「詩?」

「そんな感じの言葉です。川のそばで教えてもらいました」

誰に、とは言わなかった。

その日の夕方、奈緒は一人で川岸に立った。水面がオレンジ色に染まっている。どこかの山から流れてきた水が、東京の空を映して、やがて海へと向かっていく。

偶然という名の川は、今日も流れていた。

奈緒もまた、その流れの一部だった。

抗うのではなく、かといって沈むのでもなく——ただ、流れに身を任せながら、自分の目で景色を見て、自分の足で川底を踏みしめて、進んでいく。

それが、彼女が川から学んだ、魂の歩き方だった。


偶然という名の 川の流れに身を任せ

見える景色さえ 変わりゆくものだと

諦めるのではなく 受け入れて進もう

魂の旅路では それもまた一興


エピローグ

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ソウルミッション358

あなたの魂の物語を生きる