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鏡の向こうに咲く花

鏡の向こうに咲く花

鏡の向こうに咲く花


第一章 ひびだらけの鏡

春の終わりかけた東京。新宿のオフィスビルの三十二階から見下ろす街は、夕暮れの光の中でオレンジ色に染まっていた。

「なぜ、あの人はいつもああなんだろう」

桐島奈緒は、モニターの電源を落とし、ため息をつく。今日も、直属の上司である田端部長との衝突が終わったばかりだった。プレゼン資料を三度作り直させられ、最後には「センスがない」の一言で却下された。四十二歳。十八年勤めてきた会社で、今が一番つらいかもしれない、と彼女は思った。

帰り道、地下鉄の窓に映る自分の顔を見つめた。くたびれた目。固く結ばれた口元。いつからこんな顔をするようになったのだろう。

「あの人は人の気持ちがわからない。自分の価値観を押し付けるだけ。批判ばかりして、認めることをしない」

心の中で繰り返した言葉が、ふと、自分の口から出た言葉のように聞こえた。奈緒は眉をしかめた。

アパートに帰ると、棚の隅に一冊の本が目に入った。母が去年の誕生日に贈ってくれたもので、封も切っていなかった。表紙には「自分の中の鏡」とだけ書かれていた。母は去年の秋に他界し、その本は奈緒が開けずにいた贈り物のまま、埃をかぶっていた。

彼女は、その夜はじめて、その本を手に取った。


第二章 投げかけた石

本の中に、一枚の付箋が挟まっていた。母の字で、こう書いてあった。

「奈緒へ。これを読む頃、きっとあなたはしんどい時期を過ごしているはず。あなたは昔から、誰かに怒るとき、自分の中の何かに怒っているの。それがわかった日、あなたはきっと楽になれる。お母さんより」

奈緒は付箋を胸に押し当てたまま、しばらく動けなかった。

翌朝、会社に向かう途中、彼女は習慣のように立ち寄る小さな神社の前で足を止めた。都心の雑踏に忘れられたような小さな境内に、一本の老木が静かに立っていた。その根元に、白髪の老人がほうきを持って掃き掃除をしていた。

「おはようございます」と奈緒が会釈すると、老人は顔を上げてにっこり笑った。

「お嬢さん、顔に荷物を持っていますね」

奈緒は苦笑いした。「そんなに顔に出ますか」

「石を投げた人は忘れても、受け取った池は波紋を覚えています。でも逆もまた、しかり」

老人は何事もなかったように掃き続けた。奈緒は意味を問おうとして、やめた。なぜかその言葉が、胸の奥のどこか正確な場所に、静かに落ちていったから。

その日のミーティングで、田端部長がまた奈緒の意見を遮った。瞬間、彼女はいつものように怒りが湧き上がってくるのを感じた。だが今度は、その怒りをそっと観察した。

——私は、認められたい。 ——私は、もっと価値があると思ってほしい。 ——私は……自分を、信じてほしいと思っている。

誰に?

その問いが、胸の中で静かに響いた。


第三章 心の鏡に問いかける

週末、奈緒は母が残したノートを引っ張り出した。母は若い頃から日記をつける人で、最後の数年はほとんど「気づきのノート」と称して、自分の内面を書き記していた。

あるページに、こんな文章があった。

「嫌いな人の中に、自分がいる。怖い。でも、それを見た日から、不思議と楽になった」

奈緒はそのページを何度も読んだ。

田端部長のことを思った。彼は認めない。批判だけする。価値観を押し付ける。

——私は、誰かに対して、そういうことをしていないか?

記憶が、静かにめくれていった。

後輩の西山が新しい企画を持ってきたとき、奈緒はすぐに「それは難しい」と言った。理由を聞く前に。

夫が転職を相談してきたとき、奈緒は「現実を見て」と言った。彼の夢を聞く前に。

娘が「お母さん、絵を描いたよ」と持ってきたとき、奈緒は「後でね」と言い続けた。

心臓が痛かった。痛いのに、同時に、何か重いものが外れていくような感覚もあった。

鏡は、ずっと映していたのだ。奈緒が見たくなかったものを。

その夜、娘の夏帆が学校の絵を持ってきた。今度こそ奈緒はちゃんと受け取った。七歳の娘が描いた、ひまわりの絵。太陽がでかすぎて花が小さくなっているけれど、とても力強い絵だった。

「すごくいい絵だね」と奈緒が言うと、夏帆は目を丸くした。「本当に?」

「本当に。お母さん、ずっと見たかったんだよ」

挿絵

その言葉は嘘ではなかった。


第四章 受け入れる勇気

月曜日。奈緒は田端部長の部屋をノックした。

「少し、お時間いただけますか」

部長は面倒そうな顔をしたが、椅子に座るよう促した。

「先週の件、私の伝え方が一方的でした。部長が何を大切にされているか、ちゃんと聞かずに、自分の案を押し通そうとしていたと思います。すみませんでした」

沈黙が流れた。部長はしばらく奈緒を見ていた。

「……俺も、言い方がきつかった」

それだけだった。それだけだったけれど、奈緒にはそれで十分だった。謝らせることが目的ではなかった。自分が変わることが目的だったから。

帰り道、また神社の前を通った。老人の姿は今日はなかった。境内の老木だけが、風もないのにそっと枝を揺らしていた。

奈緒は木の前に立ち、静かに手を合わせた。

——お母さん、気づいたよ。

涙は出なかった。かわりに、鼻の奥がつんとした。それで十分だと思った。


第五章 返ってきているだけ

それから三ヶ月が経った。

田端部長との関係が劇的に変わったわけではない。相変わらず彼はときどき手厳しいことを言う。でも奈緒は、そのたびに少し立ち止まるようになった。「これは私に何かを教えているのか」と。

後輩の西山の企画を、今度はちゃんと最後まで聞いた。結果として採用できなかったが、西山は「聞いてもらえただけで十分です」と言った。その言葉を、奈緒はずっと覚えている。

夫は転職の話を、改めて打ち明けてくれた。奈緒は今度はただ、聞いた。「怖いよね、でも、あなたが本当にしたいならやってみればいい」と言ったとき、夫が泣いた。それが嬉しいのか悲しいのかわからない涙で、奈緒にはそれが正解のような気がした。

人生は、自分が投げかけたものの集合体なのかもしれない、と奈緒は思うようになった。怒りを投げれば怒りが返ってくる。不信を投げれば不信が返ってくる。でも——愛を投げれば、愛が返ってくる。すぐにではないかもしれない。遠回りして、形を変えて。それでも必ず、返ってくる。

現象は、結果ではなく、問いだったのだ。「あなたは今、何を投げていますか?」という、魂への問いかけ。

秋のある朝、奈緒はまた神社に立ち寄った。今日は老人がいた。

「少し顔が軽くなりましたね」と老人は言った。

「あの言葉、ずっと考えていました。石を投げた人は忘れても、受け取った池は波紋を覚えている、って」

「覚えていてくれましたか」老人は嬉しそうに目を細めた。「続きがあるんですよ」

「続き、ですか?」

「投げることをやめなくていい。ただ、何を投げるかを、選べばいい」

奈緒はその言葉を、胸の深いところに、大切にしまった。


エピローグ

あれから一年が過ぎた。

夏帆の描く絵は今も部屋の壁に貼られている。ひまわり、犬、お母さんの顔、空飛ぶ猫。どれも太陽がでかすぎる。どれも、とても力強い。

奈緒は今でも迷う。怒ることも、傷つくことも、ある。でも今は、その痛みを「どこかに閉じ込めるもの」ではなく、「何かを教えてくれるもの」として受け取るようにしている。

完璧にはなれない。きっとこれからも、同じ過ちを繰り返すだろう。でも、それでいい。大切なのは、気づくことだ。気づいて、また選びなおすことだ。

母が残した本の最後のページに、こんな言葉があった。

「人生で出会うすべての出来事は、あなたが送り出したものの、帰還です。だとすれば、恐れることはない。ただ、愛を送り出し続けなさい」

奈緒はその言葉の横に、鉛筆で小さく書き添えた。

「気づいた。やっと気づいた」

窓の外に、今年もひまわりが咲いている。

——現象の奥底にある、本質を見つめ直そう。 ——投げかけたものは何か、心の鏡に問いかける。 ——受け入れる勇気を持ち、成長への糧としよう。 ——メッセージはいつもそこに。気づきを信じて、進もう。

エピローグ

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