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記憶の環――時は消えない

記憶の環――時は消えない

記憶の環――時は消えない


第一章 終わりと呼んでいたもの

桐島奈緒は、母の部屋を片づけながら、時間というものが直線だと信じていた。

過去は過ぎ去り、現在だけがここにあり、未来はまだ来ていない。だから「失う」という言葉が存在するのだと、三十八年間、疑いもせずに生きてきた。

母、桐島静江が逝ったのは、桜の散りはじめた四月の朝だった。享年七十二歳。病院のベッドで、奈緒の手を握ったまま、静かに息を引き取った。最後に母が言ったのは、「またね」という一言だった。

奈緒はその言葉の意味を問い返す間もなかった。

葬儀が終わり、四十九日が過ぎ、梅雨が来て、夏が過ぎた。奈緒は週末のたびに実家へ戻り、少しずつ母の遺品を整理した。しかし母の部屋だけは、どうしても手をつけることができなかった。

その日、十一月の冷たい午後、奈緒はついに重い腰を上げた。押し入れを開けると、畳んだ布団の奥から古い木箱が出てきた。蓋には細い筆で「なおへ」と書かれていた。

奈緒の心臓が、一拍遅れた。

これは母の字だった。しかし紙の黄ばみ具合からして、数十年は前のものに違いない。なぜ今まで気づかなかったのだろう。いや、この箱はずっとここにあって、ずっと奈緒を待っていたのかもしれない。


第二章 箱の中の時間

蓋を開けると、中には三つのものが入っていた。

一枚の古い写真。小さな白い石。そして便箋に書かれた手紙。

写真には、幼い子どもが砂浜で笑っている姿が写っていた。麦わら帽子をかぶり、波打ち際に立って、両手を広げている。奈緒はすぐに気づいた。これは自分だ。たぶん四歳か五歳のころ。しかし不思議なことに、奈緒にはこの海の記憶がなかった。

白い石は手のひらに収まるほどの大きさで、表面が滑らかに磨かれていた。波に揉まれた海の石だろう。持つと、なぜか温かかった。冬の室内に置かれていたはずなのに。

手紙を広げた。

奈緒へ。

これを読んでいるということは、あなたはもうお母さんのいない世界を生きているのね。ごめんね、先に行って。でも、悲しまないでほしいの。お母さんはね、時間というものが終わりのある直線じゃないって、ずっと感じていたから。

あなたが五歳の夏、二人で行った海を覚えてる? あなたは覚えていないと思う。でも、あの日の波の音は、今もお母さんの耳の中にある。あなたの笑い声も、砂の感触も、全部ね。消えていないの。どこかに、ちゃんとある。

その石は、あの浜で拾ったもの。あなたが「きれいな石!」って言って、お母さんに渡してくれたの。ずっと持っていたよ。

時間は直線じゃない。記憶の環なの。

奈緒の目から、涙がこぼれた。


第三章 波の声

その夜、奈緒は夢を見た。

広い砂浜に立っている。空は夕暮れで、橙と紫が溶け合っている。波が穏やかに打ち寄せ、足もとの砂が濡れる。奈緒は裸足だった。

隣を見ると、若い女性が立っていた。二十代後半だろうか。白いワンピースを着て、海を見つめている。横顔に見覚えがある。しかしどこで見たのか、すぐには思い出せない。

「きれいね」と女性が言った。

「はい」と奈緒は答えた。

「ここに来たことがある?」

奈緒は首を振ろうとして、止まった。写真の浜。母の手紙の浜。あの場所がここなのかもしれない。

「子どものころに……来たかもしれません」

女性が微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、奈緒は理解した。

これは若いころの母だ。

「お母さん」と声に出した瞬間、波が大きく打ち寄せた。温かい水が膝まで届いた。

「時間ってね」と母が言った。「人は直線で考えるの。昨日があって今日があって明日がある、って。でも本当は違う。全部、同時にあるのよ。あなたが五歳のとき波と遊んだ瞬間も、私がこの石を拾った瞬間も、あなたが今ここで泣いている瞬間も、全部、どこかに永遠にある」

「でも」と奈緒は言った。「お母さんはもういない。それは本当のことでしょう」

母は静かに首を振った。

「いないんじゃなくて、あなたの記憶の中にいる。そしてね、記憶って、ただの思い出じゃないの。魂が時間を超えてつながるための環なの。あなたが私を思い出すたびに、私はそこにいる。それは直線の終わりじゃなくて、環の一点に過ぎない」

挿絵

波が引いていった。砂の上に、白い石が一つ残った。


第四章 環の気づき

目が覚めると、東の空が白みはじめていた。

奈緒は布団の中で、夢の余韻に包まれたまま、じっとしていた。母の声がまだ耳の奥に残っている。波の音が、まだ聞こえるような気がする。

白い石を手に取った。やはり温かかった。

奈緒はこれまでの人生を、一本の線として見ていた。生まれた点から始まり、死という点で終わる。だから大切な人を失うことは、その人が線から消えることだと思っていた。

しかし今、何かが変わっていた。

母の笑顔は、奈緒の記憶の中に生きている。幼い日の海の記憶は、写真という形で時間を超えて届いた。あの石は、五歳の奈緒が母に渡した瞬間から、今この手のひらの上まで、ずっとつながっている。

それは直線じゃない。

環だ。

記憶は過去のものではなく、今この瞬間にも存在している。母が逝ったことは事実だ。しかしその事実は、母がいなくなったことを意味しない。母は奈緒の記憶の中で、今も笑っている。今も手を握ってくれている。今も「またね」と言っている。

「またね」という言葉の意味が、ようやくわかった。

それは「さようなら」ではなかった。「また、環の中で会いましょう」という意味だった。

奈緒は涙を流しながら、声に出して言った。

「またね、お母さん」


第五章 春へ

翌年の四月、奈緒は一人で海へ行った。

母の手紙に書いてあった浜を、古い写真と地図を頼りに探した。三時間かけてたどり着いたその場所は、小さな入り江にある、人気のない砂浜だった。

波が穏やかに打ち寄せている。

奈緒は裸足になって、波打ち際に立った。冷たい水が足を包む。目を閉じると、遠い記憶の断片が浮かんだ。麦わら帽子。母の笑顔。「きれいな石!」という自分の声。

全部、ここにある。消えていない。

過去に起きたことは、永遠に起きたこととして、時間の環の中に刻まれている。母と過ごした日々は、終わったのではなく、環の中に存在し続けている。奈緒が記憶を辿るたびに、その環は輝く。

ポケットから白い石を取り出し、手のひらに乗せた。

石は温かかった。

五歳の自分が「きれいな石!」と言ったその瞬間。母が「大切にするね」と微笑んだその瞬間。全部が今、この石の温もりの中にある。

奈緒はゆっくりと石を海へ返した。

波が石を迎え、沖へと連れていった。しかし何も失われた気はしなかった。石が砂浜で何十年も眠り、波に磨かれ、五歳の奈緒の手に渡り、母の元で眠り、また奈緒の手に戻り、今また海へ帰った。その全ての瞬間が、一つの大きな環の中に、永遠に存在している。

奈緒は微笑んだ。


エピローグ

その夜、奈緒は日記に一行だけ書いた。

時間は直線じゃない。記憶の環だ。

窓の外では、桜が闇の中で白く浮かんでいた。去年の春に散った花びらが、また今年も咲いている。環は廻る。魂は続く。愛した人は、記憶という橋を渡って、いつでもそこにいる。

Time is not a line. It's the circle of your memory.

母は逝った。しかし、いなくなっていない。

奈緒はそれを、骨の髄まで知っている。


エピローグ

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