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魂が選んだ朝

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魂が選んだ朝


第一章 灰色の日々

東京、三月。

田中望は三十二歳になった朝、鏡の前でしばらく動けなかった。

映っているのは自分だとわかっている。だが、その顔がどこか他人のようで、名前を呼んでも返事をしない気がした。目の下には薄い影。頬はわずかにこけ、かつて笑うと三日月のように細くなったはずの目が、今はただ疲れているだけに見えた。

「誕生日、おめでとう」

誰もいない部屋に、自分で言った。言葉は天井に吸い込まれ、消えた。

望は外資系コンサルティング会社の中堅社員だった。年収は同世代の平均をはるかに超え、渋谷から二駅のマンションに一人で暮らし、週末には友人たちと食事をして笑い、傍から見れば「うまくいっている人生」の見本のような存在だった。

だが彼女の内側には、説明のできない空洞があった。

仕事は正確にこなせた。プレゼンは評価された。昇進の話も出ていた。なのに、夜、部屋の電気を消してベッドに横たわるたびに、胸の奥から問いが浮かんだ。

――これで、いいのか。

これが自分の人生なのか。

これを、望んでいたのか。

その問いに答えられないまま、また朝が来る。電車に乗り、資料をつくり、会議に出て、笑って、疲れて帰る。三十二歳の誕生日も、そうやって過ぎていった。


第二章 雨の駅で

四月の末、残業を終えて駅のホームに立ったとき、望は突然、足が動かなくなった。

電車が来る。乗らなければいけない。わかっている。でも体が言うことを聞かなかった。

ホームの端、雨音が屋根をたたいている。人波が流れていく。自動放送が繰り返される。それらすべてが遠く、まるで水の底から聞こえてくるようだった。

「大丈夫ですか」

声がした。

隣に、七十代とおぼしき老女が立っていた。白髪を丸くまとめ、紺色のコートを着ている。傘を持っていないのに濡れていない。それが不思議だったが、望はそれより先に泣いていた。声も出さず、ただ涙が流れていた。

「あら」と老女は言った。驚かず、怖がらず、ただ静かに。「ずいぶん長く、忘れていたのね」

「何を、ですか」

「あなたがここにいる理由を」

次の電車が来て、老女は乗った。望は乗れなかった。その老女の顔を、どこかで見た気がした。いつか、どこかで。夢の中かもしれない。あるいは夢よりずっと前の、どこかで。

その夜、望は初めて五年ぶりに日記を開いた。


第三章 眠りの中の記憶

日記を書いていると、眠気が来た。ペンを持ったまま、机に伏せた。

夢を見た。

夢の中で望は光の中にいた。体がない。ただ意識だけがあった。周囲には同じような光のかたまりがいくつも漂い、それぞれが穏やかな意志を持っているとわかった。

声ではなく、直接知る、という感覚で、誰かが言った。

――次は、どんな人生を選ぶ?

望は答えた。今度こそ、ちゃんと感じてみたい。痛みも、迷いも、喜びも全部。逃げずに。

――それは難しいよ。忘れてしまうから。

わかってる。それでも行く。

――本当に?

本当に。

――では行きなさい。あなたが選んだ。

光が弾けた。

そして泣き声。産声。東京の、ある病院の分娩室。三十二年前。

望は机の前で目を覚まし、しばらく動けなかった。頬に涙の跡があった。ペンはまだ手の中にあった。

日記には何も書かれていなかった。

だが、何かが変わっていた。胸の中の空洞が、空洞のままだったけれど、それがなぜそこにあるのかを、初めてうっすらと知った気がした。

挿絵


第四章 選んだということ

翌朝、望は会社に電話して午前半休を取った。生まれて初めてそうした。

近くの公園を歩いた。桜はすでに散り、葉桜が風にゆれていた。池の鯉がゆったりと泳いでいた。ベンチに座ったお爺さんが、空を見上げて微笑んでいた。

何でもない風景だった。

なのに望は、それを見て、胸が詰まった。

ここにいる。今、ここにいる。この体で、この空気を吸って、この光の中にいる。

夢の中で自分が言った言葉が、耳の奥でもう一度聞こえた。

――痛みも、迷いも、喜びも全部。逃げずに。

空洞だと思っていたものは、空洞ではなかった。それは余白だった。まだ感じていないものたちのための、場所だった。三十二年間、忙しすぎて気づかなかった。あるいは気づかないようにしていた。

望は日記を開き、初めて書いた。

「私は、ここを選んだ。忘れていただけで。」

それだけ書いて、ペンを置いた。十分だった。


第五章 雨上がり

五月になった。

望の生活は劇的には変わっていない。同じ会社に行き、同じ仕事をする。それは続いている。

だが何かが違った。

帰り道、夕焼けに染まるビル群を見てきれいだと思えた。地下鉄の中で隣に立った老人のコートが、雨で少し濡れているのを見て、傘を貸してあげたいと思った。コンビニのレジで、疲れ切った目をした若い店員に、ありがとうございますと言われたとき、こちらも本当にありがとうと思った。

小さいことだった。

でも望には、それが小さいとは思えなかった。

あの駅のホームで会った老女のことを、まだ考える。あれは夢だったのかもしれない。疲労が見せた幻かもしれない。でも彼女が言った言葉は、消えない。

「ずいぶん長く、忘れていたのね」

そう。忘れていた。

自分がここに来た理由を。この体を選んで、この時代を選んで、この痛みや迷いを経験しに来たことを。それは弱さではなく、勇気だった。光の中で、それでも行くと言った、あの意志だった。

六月、望は上司に話した。コンサルの仕事は続けるが、いつかは子どもたちに何かを教える仕事がしたいと。うまく言葉にできなかったが、上司は黙って聞いてくれた。

それでよかった。すぐに変わらなくていい。ただ、方角だけ知っていればいい。


エピローグ

秋の終わり。

望は一人で海を見に行った。伊豆の小さな浜辺。平日の昼間、人はほとんどいない。波が来ては返し、また来ては返す。

砂浜に座って、ノートを開いた。

何を書こうとしたのか、自分でもわからなかった。ただペンを走らせると、気づいたら詩のような言葉が並んでいた。

 あなたはこれを選んだ。  ただ、忘れていただけ。

望はしばらく、その言葉を見つめた。

どこかで読んだことがある気もした。夢で聞いた気もした。ずっと前から知っていた気もした。

波が足元まで来て、冷たかった。

望は笑った。

生きることは、思い出していく旅なのかもしれない。何を選んだかを。なぜ来たかを。何を感じに来たかを。そしてその答えは、遠い宇宙にあるのではなく、今日の夕焼けの中に、老人の濡れたコートの中に、店員の「ありがとうございます」の中に、もうとっくに、隠されている。

空が橙に染まり始めた。

田中望は、深く息を吸った。

冷たい潮の匂いが、胸の中の余白を満たしていった。


You chose this. You only forgot.

エピローグ

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ソウルミッション358

あなたの魂の物語を生きる