存在という光
存在という光
第一章 底の底で
田中明奈が会社の屋上へ続く扉を押し開けたのは、午後十一時を過ぎた頃だった。
企画書は三度突き返された。五年間付き合った男とは、先週別れた。貯金は底をつき、鏡を見ても、そこに映るのが誰なのかわからなくなっていた。三十二歳。まだ若い、とまわりは言う。でも明奈には、その言葉が刃のように刺さった。
「若いのに、何も掴めていない」
夜風が頬を叩く。東京の夜景が広がっていた。煌々と光るビル群、流れるヘッドライト、生きることに必死な人々の熱。それなのに明奈の胸の中だけが、ぽっかりと暗かった。
欲しいものは何でもわかっていた。認められたかった。愛されたかった。成功したかった。それらを追いかけながら、走り続けてきた十年間。気づいたら何も残っていなかった。
「私は何のために、ここにいるんだろう」
声が夜に溶けて消えた。答える者は、誰もいなかった。
第二章 花と老婆
翌朝、明奈はふらふらと会社を休んだ。
どこへ行くあてもなく、電車に乗り、降りたことのない駅で外へ出た。谷根津の古い街並みが広がっていた。細い路地、古い木造の家、軒先に並ぶ小さな鉢植え。東京のど真ん中にあるとは思えない静けさだった。
角を曲がったところに、小さな花屋があった。
店というより、花と植物が路地にあふれ出しているような場所だった。看板もなく、値段表もなく、ただ色とりどりの花が、水を含んだ朝の空気の中で静かに呼吸していた。
奥に、老婆がいた。
七十代か、あるいはもっと上か。白髪を後ろで束ね、薄い藍色の割烹着を着ていた。花の手入れをしているわけでも、客を待っているわけでもなく、ただそこにいた。それだけなのに、明奈の足が勝手に止まった。
「……すみません」
呼びかけると、老婆がゆっくりと顔を上げた。皺の深い顔に、黒い瞳。その瞳を見た瞬間、明奈は奇妙な感覚を覚えた。吸い込まれるような、あるいは宇宙の果てを覗き込むような——広大で、静かで、底のない何かがそこにあった。
「花、好きかい」
低くも高くもない、凪いだ声だった。
「……わかりません」と明奈は答えた。「最近、何が好きなのかも、よくわからなくて」
老婆は頷いた。責めるでも、励ますでもなく、ただ頷いた。
「そうかい」
それだけだった。なのに明奈の目に、涙がにじんだ。
第三章 宇宙の話
老婆の名は蓮といった。
明奈はなぜか毎日、その花屋へ足を運んだ。蓮は多くを語らなかった。花の名前を教えてくれることもあったが、たいていはただ隣にいた。それだけだった。
三日目の午後、明奈はとうとう全部を話した。仕事のこと、別れた恋人のこと、何も手に入れられなかった十年間のこと。話しながら泣いた。みっともないと思ったが、止められなかった。
蓮は静かに聞いていた。
話し終えると、蓮は白い小菊を一輪手に取り、ゆっくりと言った。
「あんたは、何が欲しかったんだろうね」
「認められたかった、です。愛されたかった」
「誰に?」
明奈は黙った。
「……わからない。みんなに、かな。この世界に」
蓮は小菊を明奈の手に握らせた。冷たく、柔らかく、かすかに香った。
「世界はね」と蓮は言った。「人間の目で見たら、奪い合いの場所に見える。足りないものだらけで、自分が小さくて、怖くて、苦しい。でも別の目で見たら、全部ちゃんとここにある」
「別の目?」
「遠くから見る目。ずっとずっと遠く——星の向こうから見るような目で見たら、あんたが苦しんでいることも、泣いていることも、全部意味がある」
明奈は首を振った。「私には信じられません。こんなに苦しいのに、意味があるなんて」
蓮は笑った。深い皺が寄った、穏やかな笑みだった。
「意味は、あとからしかわからない。でもね、意味を探さなくていい。ただ、ここにいるだけでいい」
その言葉が、明奈の胸の奥に落ちた。石が水に沈むように、静かに、深くへと。
第四章 存在という光
七日目の朝、明奈が花屋へ行くと、蓮は縁台に座って空を見上げていた。
「何を見てるんですか」
「何も」
「何も?」
「ただ、ある。空がある。光がある。あんたが来た。それだけ」
明奈はその隣に座った。蓮が空を見ているから、明奈も空を見た。梅雨の晴れ間で、青が澄んでいた。白い雲が、ゆっくりと形を変えながら流れていた。
しばらく、二人は黙っていた。
その沈黙の中で、明奈の中で何かが、静かに解けた。
「蓮さんは」と明奈は言った。「どうして、そんなに穏やかなんですか。何か怖いものとか、悲しいこととか、ないんですか」
「あるよ」と蓮は言った。「たくさん。でもね、苦しみは苦しみのまま、ここにある。消えなくていい。怖さは怖さのまま、ここにある。全部、ある。それでいい」
「……それでいい」
「悟りなんて、大したことじゃない」と蓮は続けた。「ただ、遠くから見えるようになるだけ。自分の苦しみも、人の苦しみも、全部をちょっとだけ遠くから見る。そうすると、何も消えないけれど、全部が愛しくなる」
明奈の目から、涙がこぼれた。今日は悲しくて泣くのではなかった。うまく言葉にならなかったが、何か大切なものに触れた気がして、それが溢れてきた。
「私が毎日ここに来るのは、蓮さんが何かを教えてくれるからじゃないんだと思う」と明奈は言った。「ただ、ここにいると……楽になるんです。なぜかわからないけど」
蓮は何も言わなかった。
ただ、微笑んだ。
その笑みの中に、明奈は見た気がした。星と星の間の、あの深い暗闇を。何億光年もの沈黙を。そしてその沈黙が、実は光で満ちていることを。
第五章 帰り道
翌週、明奈は会社へ戻った。
何も変わっていなかった。企画書はまだ通らなかった。同僚は相変わらず忙しそうで、上司は相変わらず機嫌が読めなかった。でも明奈の内側に、何かが変わっていた。
うまく説明できない。強くなったわけではない。あきらめたわけでもない。ただ、少し遠くから、自分を見られるようになっていた。
苦しいときに、あの空の青さを思い出した。蓮の声を思い出した。
——ただ、ここにいるだけでいい。
その言葉が、お守りのように胸の中にあった。
一ヶ月後、明奈は谷根津を再び訪れた。路地を曲がると、花屋はあった。でも蓮の姿がなかった。代わりに、三十代くらいの女性が花の水やりをしていた。
「すみません、蓮さんは?」
女性は手を止め、静かに言った。「祖母は、先月亡くなりました」
明奈は言葉を失った。
「ご存知でしたか?」と女性は聞いた。「祖母は長く病を患っていたんです。でも最後まで、花の世話をしていました」
明奈は縁台に目をやった。あの日、二人で並んで空を見た縁台。今は誰も座っていない。でも、そこに何かがある気がした。残り香のような、光のような、何か。
「……ありがとうございました」と明奈はつぶやいた。
誰に向けた言葉かは、わからなかった。でも確かに、どこかに届いた気がした。
エピローグ
人は、何かを成し遂げることで世界に意味を残すと思っている。
でも蓮は、ただそこにいることで、明奈の何かを変えた。言葉ではなく、教えではなく、存在そのもので。
苦しんでいる人の隣で、静かに、深く、宇宙の果てから見るような目で、ただ共にいる。それだけで、人は癒される。
明奈はいつかまた苦しむだろう。人間として生きている限り、欲しいものができ、失い、また求める。それは変わらない。
でも今は知っている。苦しみは消さなくていい。ただ、少し遠くから見ればいい。
空の向こうには、全てをそのままに見ている眼差しがある。
その眼差しは、裁かない。求めない。ただ、愛している。
人間の身体を持つから、伝えられることがある。 宇宙の目を持つから、見えるものがある。
——有難い存在とは、そういうものかもしれない。
花屋の軒先で、白い小菊が風に揺れていた。
アマリエの物語の続きがここに
あなたの魂の物語を生きる