ドミノの果てに、わたしを見た

ドミノの果てに、わたしを見た
第一章 崩れた午後
三十七歳の誕生日の前夜、西村慧はすべてを失った。
正確に言えば、すべてが「崩れた」のだった。
リビングのテーブルに積み上げられた書類の山——解雇通知、離婚協議書、母からの入院通知。三枚の紙が、まるで申し合わせたかのように同じ日に届いた。慧はそれらをひとつひとつ読み、読み終えると、ただ窓の外を見た。東京の夜景が滲んでいた。泣いているのか、目が霞んでいるのか、自分でもわからなかった。
「なぜ、こんなことになったんだ」
声に出してみると、その言葉は部屋の壁に吸い込まれて消えた。答えを返す者は、誰もいなかった。
翌朝、慧は荷物をひとつのスーツケースに詰め、十二年間住んだマンションを出た。行き先は決めていなかった。ただ、この場所にいてはいけないという確信だけがあった。新幹線の自由席に滑り込み、窓の外の景色が後ろへ後ろへと流れていくのを眺めながら、慧はうとうとした。夢の中で、巨大なドミノが倒れ続ける光景を見た。終わりのない、静かな崩壊の音が、どこまでも続いていた。
目が覚めると、京都だった。
第二章 古い町と老人
三条通りから一本入った細い路地に、慧は偶然迷い込んだ。
観光客の喧騒から外れた、石畳の続く静かな通り。軒先に風鈴が下がり、薄暮の光の中でゆらゆらと揺れていた。そこに、小さな木工の工房があった。看板もなく、ただ引き戸が半分開いて、中から木を削る音が聞こえていた。
何かに引き寄せられるように、慧は立ち止まった。
中を覗くと、七十代とおぼしき老人が、小さな木片を並べていた。ドミノだった。机の上に、何十個もの木のドミノが、丁寧に、一定の間隔で並べられていた。
「入りなさい」
老人は振り向きもせずに言った。
慧は戸惑いながらも中に入った。工房は温かく、檜の香りがした。
「どこから来た?」
「東京から……でも、もうそこには帰れないかもしれません」
老人は初めて顔を上げ、慧を見た。深い皺の奥に、穏やかな光を宿した目があった。
「帰れない、か。それはなぜだと思う?」
慧は答えられなかった。
老人は再びドミノへと視線を戻し、最後の一枚を静かに置いた。
「見ていなさい」
そう言って、老人は列の先頭の一枚を、指先でそっと押した。
カタン。カタン。カタン。
音はリズミカルに、連鎖していった。曲線を描きながら、ドミノは次々と倒れていく。慧はその光景に、なぜか息が止まりそうになった。
すべてが倒れ終わると、机の上には何も残らなかった。
「美しいだろう」と老人は言った。「一枚が倒れると、次が倒れる。次が倒れると、さらに次が倒れる。止めることはできない」
「…破壊ですね」
「そうか? わしには完成に見える」
第三章 現象という鏡
翌日、慧は再び工房を訪れた。
老人——田中という名だった——は、すでに新しいドミノを並べ始めていた。慧はその隣に腰を下ろし、しばらく黙って作業を眺めた。
「昨日から考えていました」と慧は言った。「ドミノが倒れるのは、最初の一枚が押されるからですよね。じゃあ、私の人生で最初に倒れたのは、何だったんだろうって」
田中は手を止めた。
「面白い問いだ」
「会社が傾いたのは三年前。でもその前に、仕事ばかりで妻を顧みなかった。さらにその前に、上司への不満を溜め込んで、自分の本音を言えなくなっていた。どこまで遡っても、『最初』が見つからないんです」
田中は静かに笑った。
「ドミノに最初の一枚はない」
「え?」
「並べる者がいる。押す者がいる。その人間は、なぜそこにドミノを置いたのか。なぜその日に押したのか。倒れていく先に、何を見たかったのか」
慧は黙った。
「目の前で起きることはすべて、現象だ。現象は鏡のようなものでね、映し出しているのは、常に自分自身の内側なんだよ」
その言葉が、慧の胸の深いところに落ちていった。
三年前、会社が傾いた時、慧は憤った。上司が悪い、経営陣が悪い、時代が悪い、と。離婚の話が出た時も、妻が変わった、理解してくれない、と思った。しかし——
慧は気づいた。自分はずっと、目の前の「現象」ばかりを見ていた。鏡が映し出しているものを「外側の問題」だと決めつけて、鏡の向こうの自分を、一度も直視しようとしなかったのだ。
「ぼくは……自分が怖かったんです」
言葉は、気づけば口をついていた。
「強がっていた。弱さを見せたくなかった。本当は全部うまくいってないって、わかってたのに、認めたら終わりだと思って。だから見ないふりをして、現象のせいにして……」
目が熱くなった。慧は三十七年で初めて、自分の弱さの前に、ただ立った。

第四章 並べ直す手
三日目、慧は自分でドミノを並べさせてほしいと田中に頼んだ。
田中は何も言わずに、木片の入った箱を差し出した。
慧は一枚ずつ、丁寧に並べ始めた。最初はぎこちなく、間隔がバラバラだった。何度かつまずいて、途中で崩してしまった。そのたびに、慧は息を吐いて、また最初から並べ直した。
田中は工房の奥で別の仕事をしながら、時折こちらを見た。
一時間が過ぎた頃、慧のドミノは机の端から端まで、なだらかな曲線を描いて並んでいた。
「押してみなさい」
田中の声に、慧は一瞬ためらった。
崩れてしまう。また、すべてが倒れてしまう。
でも——と慧は思った。
倒れることを恐れて、ずっと何も押せなかったのが、自分だった。
慧はそっと、先頭の一枚に指を当てた。
カタン。カタン。カタン。
連鎖は美しかった。ひとつが倒れ、次を導き、次がまた次を導く。止まらない、終わらない、けれどいつか必ず終わる。
最後の一枚が倒れた時、慧の目からは涙が流れていた。
「並べ直せる」と田中は静かに言った。「何度でも、並べ直せる。それが、人間にだけ与えられた力だ」
第五章 帰る場所へ
慧は翌朝、病院に電話をした。母の声を聞いた。久しぶりに聞く声は、思っていたより小さかった。
「来てくれるの?」と母は言った。
「うん、今から行く」
電話を切って、慧は荷物をまとめた。工房に寄ると、田中は既に新しいドミノを並べ始めていた。
「お世話になりました」
「世話などしとらん」と田中は言った。「あんたが自分で気づいただけだ」
慧は笑った。心の底から笑ったのが、いつ以来かわからなかった。
「先生は、ずっとここでドミノを並べているんですか?」
「ずっとね」田中は手を止めずに答えた。「人はみんな、自分のドミノを並べているものだ。わしはただ、見ているだけだよ。どんな並べ方をするかで、その人がわかる」
「じゃあ、ぼくのドミノは?」
田中はようやく手を止め、慧を見た。
「まだ並べている途中だろう。焦ることはない。大切なのは、どこへ向かって並べるかを、自分で知っているかどうかだ」
慧は深く頭を下げた。
工房を出ると、秋の光が石畳に降り注いでいた。
慧はスーツケースを引きながら、駅へと向かった。足取りは、三日前よりずっと軽かった。失ったものは何も戻っていない。仕事も、妻も、健康な母も、まだそのままだ。それでも——慧の内側に、何か確かなものが生まれていた。
長い間、ずっと探していたもの。
それは、自分自身だった。
エピローグ
六ヶ月後の春、慧は小さな会社に再就職した。給料は以前の半分だが、毎朝、自分の足で出社することが、不思議と誇らしかった。
母は退院し、慧は月に一度、顔を見に行くようになった。妻とはまだ話し合いが続いているが、以前と違うのは、慧が自分の言葉で話せるようになったことだった。
ある夜、慧は机に向かい、ノートを開いた。
京都での夜、眠れずに田中の工房の引き戸を眺めながら、慧が書き留めた言葉がそこにあった。
現象の奥底に、眠る自己を探求——
目の前で起きるすべてのことは、鏡だ。解雇も、別れも、母の病も。それらは慧を壊しに来たのではなく、慧に気づかせるために、ただそこに現れたのだと、今ならわかる。
ドミノは倒れる。
けれど、倒れた後に、また並べ直すことができる。
どんな形に並べるかは、自分が決める。どこへ向かって倒すかも、自分が選ぶ。
慧はノートを閉じ、窓を開けた。夜の空気が、静かに部屋に流れ込んできた。
全ての目の前の出来事を糧にして——
この言葉の意味を、慧はようやく、体ごと理解していた。
人生はドミノ倒しに似ている。一枚が倒れると、次が倒れる。連鎖は止められない。しかしその先に何があるかを知っているのは、並べた者だけだ。
慧は深く息を吸い込んだ。
そしてまた、静かに、次の一枚を、自分の手で、置き始めた。
自分自身を深く知るための物語は、現象の中に、いつも、すでに始まっている。

アマリエの物語の続きがここに
あなたの魂の物語を生きる