旅の果ての、己へ
旅の果ての、己へ
第一章 空洞の四十九年
田中博史が自分の人生を「空洞」だと気づいたのは、五十二歳の誕生日の朝、鏡の前でネクタイを締めながらのことだった。
鏡の中に映る男は、どこかの会社の部長だった。妻がいて、社会人になった息子が二人いた。郊外に持ち家があり、老後の資金もそれなりに積み立てていた。世間が「成功」と呼ぶ形を、ほぼ過不足なく備えた男だった。
だが、その男の目には光がなかった。
「行ってきます」
誰もいないリビングに向かってつぶやき、博史は玄関を出た。妻の美佐子はパートに出ていた。息子たちはそれぞれ自分の生活を持っていた。家族はいる。しかし家の中には、誰かの温もりの残り香すら漂っていなかった。
電車の中で、博史はぼんやりと窓の外を眺めた。朝の通勤電車は今日も満員で、スーツ姿の男女が無言でスマートフォンを見つめていた。二十五年前、自分も同じ顔をしてこの車両に乗り込んでいたはずだ。あの頃は、それが当然の未来への道だと信じていた。
父に言われた言葉が、ふとよみがえった。
「男というのは、家族のために生きるものだ。国のために生きるものだ。自分のやりたいことなど、二の次だ」
父は戦後を生き抜いた世代だった。貧しい中から這い上がり、家族を養い、息子二人を大学まで出した。博史はその父を、ずっと尊敬していた。いや、尊敬していたのか、恐れていたのか、もう分からなかった。
大学時代、博史にはギターがあった。音楽があった。バンドを組んでライブハウスに立ち、自分の作った歌で見知らぬ人が泣いているのを見て、胸が震えた夜があった。あの夜の感触だけが、今も時折夢に出てきた。
しかし父は言った。「音楽で飯が食えるか」。美佐子の父も言った。「しっかりした仕事に就いてくれなければ、娘はやれない」。会社の先輩も言った。「趣味は趣味として取っておけ。仕事に感情を持ち込むな」。
誰もが何かを言った。そして博史は、その全てに従った。
ギターは今も押し入れの奥に眠っていた。二十年以上、一度も手に取っていなかった。
第二章 逃げるように乗った新幹線
その日、博史は京都に日帰り出張の予定だった。取引先との会議が午後三時に終わり、帰りの新幹線は五時発を取っていた。
会議が終わったとき、博史はホームへ向かう足が、不思議と止まった。
改札の前で立ち尽くし、東京行きの電光掲示板を眺めながら、彼は思った。
――帰って、何がある。
妻はいる。しかし二人の間に、もう語り合うべき言葉はほとんど残っていなかった。子どもの話、家のローン、老後の計画。そういう「管理事項」の共有はあっても、互いの魂に触れるような会話は、いつのまにか消えていた。
博史はスマートフォンをポケットに入れたまま、改札とは逆方向に歩き出した。
気づけば、鴨川のほとりに立っていた。
六月の夕暮れ、川面が橙色に染まっていた。等間隔に並ぶカップルたち。川を渡る風が、ネクタイをやさしく揺らした。博史はネクタイを外し、上着をたたんで腕に抱えた。
久しぶりに、空を見上げた。
雲が、ゆっくりと西へ流れていた。どこへ行くのかも決めず、ただ風に運ばれていくその雲を見ながら、博史は思った。
――あの雲は、自由だ。
ばかばかしい考えだとすぐに打ち消した。しかし消えなかった。
第三章 老いた女将の問い
宿を探してふらりと路地に入り込んだ博史は、古い町家を改装した小さな宿に行き着いた。「空室あり」の手書き看板が、格子戸に掛かっていた。
女将は七十を少し超えたくらいの、細い老女だった。白髪を後ろでまとめ、柔らかな麻の着物を纏っていた。目が、異様に澄んでいた。
「急なお願いなのですが、一晩泊めていただけますか」
博史が言うと、女将はほんの一瞬、博史の顔をじっと見た。それから、ゆっくりと微笑んだ。
「どうぞ」
夕食は、小さな食卓で女将と差し向かいになった。湯豆腐と白いご飯と、漬物。それだけのものが、なぜか沁みた。
「逃げてきはったんですか」
女将が突然言った。
博史は箸を止めた。
「……なぜそう思われるのですか」
「ネクタイを外した男性が、川べりで空を見上げてはるとき、たいていそうどす」
博史は苦笑した。「逃げたと言うべきか、立ち止まったと言うべきか、自分でもよく分からないんです」
女将は茶を注ぎながら、静かに言った。
「逃げることと、立ち止まることと、進むことは、どれも同じ一つの選択どす。自分で選んだなら、どれも正しい。誰かに決められた道を走り続けることよりも、ずっと」
沈黙が落ちた。
博史は長い間、湯気の立つ茶碗を見つめていた。
「私はずっと……父に言われた通りに生きてきました。会社のために。家族のために。国民の義務とやらを果たすために」
声が、少し震えた。
「その結果が、鏡に映るあの顔です」
女将は何も言わなかった。ただ静かに、博史の話を聞いていた。それだけでよかった。
博史は、二十五年ぶりに泣いた。
第四章 己の中の終着駅
翌朝、博史は早く目が覚めた。
縁側に出ると、小さな庭に朝露が光っていた。遠くで鳥が鳴いていた。博史はそこに座って、ぼんやりと光の中にいた。
父のことを思った。父は「国のため、家族のため」と言い続けた。しかしよく考えると、父自身も誰かに同じことを言われて育ったのではないか。父の父に。時代に。社会に。そうして伝言ゲームのように、誰かの価値観が、世代を超えて受け渡されてきたのだ。
誰も悪くない。しかし誰も、本当の声を聞かなかった。
博史は静かに問うた。自分自身に。
――お前は何がしたいのか。
答えは、意外なほど早く来た。
音楽。歌。自分の中に眠っている言葉を、音に乗せて誰かに届けること。それだけだった。それだけのことが、二十五年間、押し入れの奥で待ち続けていた。
もちろん、今さらプロになれるとは思っていない。息子たちに「かっこいいお父さん」だと思われるかも分からない。美佐子が理解してくれるかも分からない。
しかし、それでいい、と博史は思った。
他人の評価のために生きるのは、もうやめよう。
国のために生きろと言われた時代は終わった。子どものためにと言われた時代も、子どもたちは自分の足で立った。美佐子は美佐子で、自分の人生を生きている。
では自分は、誰のために生きるのか。
答えはもう、出ていた。
自分のために。ただ、それだけのために。
チェックアウトのとき、女将は何も言わなかった。ただ深々と頭を下げた。博史も頭を下げた。
宿を出て振り返ると、格子戸の隙間から、女将の澄んだ目が見えた。それはまるで、はるか昔から博史の帰りを待っていた誰かの目のようだった。
第五章 選択、そして出発
東京に戻った博史は、その日のうちに押し入れを開けた。
ギターケースは、ほこりを被っていた。ケースのファスナーを引くとき、手が震えた。中のギターは、弦が錆びて二本切れていた。ボディに小さなひびが入っていたが、それはずっと前からだった。
博史はギターを抱えて、居間に出た。
美佐子が台所から出てきて、目を丸くした。
「……何十年ぶり?」
「二十五年」
美佐子は少し笑った。「音、出るの?」
「弦を替えれば出る」
翌日、博史は楽器店に行き、弦を買った。張り替えながら、指先がぎこちなく動いた。コードを押さえると、昔の感触が少しだけ戻ってきた。Gのコードを鳴らしたとき、なぜか涙が出た。
辞表を出すかどうか、迷った。結局、すぐには出さなかった。
しかしそれは、怖いからではなかった。自分の判断で、今は留まることを選んだのだ。逃げるのではなく、戦うのでもなく、自分が決めた場所に立つ。それだけのことが、こんなにも清々しいとは思わなかった。
週末、博史は地域のコミュニティセンターが主催する「大人の文化教室」に申し込んだ。ギター演奏と、作詞作曲。参加者は中年から老人まで様々で、誰もが何かを取り戻しに来ていた。
初日、博史は自己紹介のとき言った。
「二十五年、ギターを弾きませんでした。これからは、弾きます。それだけです」
会場から、小さな拍手が起きた。
エピローグ
一年後の夏、博史は京都を再び訪れた。
あの小さな宿の前に立ったとき、格子戸には「満室」の札がかかっていた。当然のことのように、博史は笑った。
鴨川のほとりで、博史はギターを抱えて座った。観光客が不思議そうに見ていたが、気にしなかった。
弦を爪弾くと、川の音に混じって音が広がった。自分で書いた歌詞は、まだ荒削りだった。メロディーも、どこかぎこちなかった。しかしそれは、今の自分の声だった。誰かに言われた言葉でも、誰かのために選んだ音でもない、自分だけの音だった。
歌い終えたとき、川のそばで休んでいた老人が、静かに手を叩いた。
「ええ歌やな」
博史は頭を下げた。「ありがとうございます」
老人は川面を眺めながら言った。「どこから来はったんですか」
「東京から」
「旅ですか」
博史は少し考えてから、こう答えた。
「旅の、終着点を探しに来ました」
老人は不思議そうな顔をした。博史は笑った。
旅の終着は、己の中にある。
それを知るまでに、二十五年かかった。しかし今は知っている。どこへ行こうとも、何を選ぼうとも、出発点も終着点も、ずっと最初から、自分の内側にあったのだ。
命を懸けることも、逃げることも、立ち止まることも、すべて等しく正しい。自分が選んだなら。
博史はもう一度、弦を弾いた。
川は流れていた。雲は西へ流れていた。そして博史の音楽は、どこへともなく、夏の空に溶けていった。
「旅の終着は 己の中にあり」
アマリエの物語の続きがここに
あなたの魂の物語を生きる